「空気」の研究 (1977年)

「空気」の研究 (1977年)

「空気」の研究 山本七平
「空気」の研究
16:「抗空気罪」最も軽くて「村八分
33:多くの人の言う科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。
62:福沢諭吉はお札は踏めたが、これは「過去のお札」だから踏めたのである。それ自体は根本的解決ではないから、直ぐに彼にも絶対踏めない「文明開化」の新しいお札(教育勅語御真影)が出てくる。
66:対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を失ってしまう、公害を絶対化すると公害という問題は解決できなくなる。そしてこの関係がどうしても理解できなかったのが昔の軍部なのである。
70:「人間はみな同じ」を口にする人が見落としているのは、「同じだから違う」というこの関係である。
80:彼らが空気の支配を徹底的に排除したのは、多数決による決定だったことである。少なくとも多数決原理で決定が行なわれる社会では、その決定の場における「空気の支配」は、まさに致命的になる。・・・多数決原理を襲い、これを空洞化さす空気の支配は、死の臨在の空気支配で決定的に表れる。その際の空気の支配は、誰も抵抗できないほど強くて当然なのであって、従って、死の臨在する決定(殺人者への死刑判決)には、彼らは非常に慎重であり、あらゆる面で、死の臨在すなわち「死の空気」の支配を排除しようとした。−死刑に相当する刑の場合・・・公判は日中に行い無罪判決はそれが決定したらその夜のうちに下すことが出来るが、有罪の判決はその翌日に下さなければならない・・・被告を有利にするための証言はできるが、不利のするための証言はできない−
「水=通常性」の研究
119:シベリア天皇は、所詮、日本人にしか発生しなかった
134:「状況倫理」
P149:自由にしていて自由を失うまいとすれば、「一君万民・オール3的、事実を口にしないことが真実」という全ての組織から脱落する以外になくなるが、脱落とはいわば勘当であり、一切の権利を実質的に失うから、また自由を失ってしまうわけである。
P150:戦前の日本の軍部と右翼が、絶対に許すべからざる存在と考えたのはむしろ「自由主義者」であって、必ずしも「社会主義者」ではない。社会主義者は転向さえすれば有能な「国士」になると彼らは考えていた。
P164:・・・「一君万民平等無差別」はその「君」が誰であろうと、全体主義的無責任体制なのである。
小谷秀三『比島の土』
P188:日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の状況倫理による私的信義絶対の世界になって行く訳である。・・・そしてその基本になるものは、自ら「状況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」か「無謬人集団」なのである。

日本的根本主義について
P197:収容所での米軍中尉、”天皇は現人神とする「国定の国史教科書」が存在する限り、進化論が存在する筈が無い”
P205:セルヴェトゥスの焚殺
P206:アナバプテスト(再洗礼派)とは自称ではなく、他からの蔑称
P236:言葉による科学的論証は、臨在感的把握の前に無力であったし、今も無力である。
P239:人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在観的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。
P245:徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。
P247:対象を臨在感的に把握することは追及の放棄だからである。
P253:「日本の精神文明・西欧の物質文明」といった奇妙な分け方で、「愚かな部分」を排除しようとしても、「一人格内の賢愚分別」は、もともと無理な命題である。・・・我々は戦後、自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」として既に表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。