氏姓 (1960年) (日本歴史新書)

氏姓 (1960年) (日本歴史新書)

氏姓
P2:母系制が父系に先行するという考えは、未開社会の研究が進むにつれて困難になっている。
P3:母は「ミオヤ」、父は「オヤ」と呼ばれたが、父が「オヤ」と呼ばれる様になったのは奈良時代に入ってから。
P5:氏族は家族の拡大ではなく、父系・母系のどちらか一方を辿る片系的な血縁関係の上に成立し、時代場所によって一様ではない。
P6:日本は古くから現代に至るも族外婚が行われた形跡は全く無いといわれている。
P17:氏は応神朝から
P39:連(ムラジ)は群主(ムレアルジ)の意で伴部の首長を指した。
P47:カバネの制定的に整理した時期を「弁恭紀の盟神探湯」に求めるのは年代的には少し早過ぎる。継体・欽明朝が妥当だろう。
P51:倉人・酒人・穴人の様な「某人=人姓」は大和朝廷の官職名で、伴造と部民の間にあって実務を処理する下級官僚で、5世紀末に発生したと推測。
P60:職業部(伴部・品部・雑戸)、律令制度の中に多くが残存した。品部2500戸、雑戸1500戸
P62:中臣氏は神祇官、土師氏は治部省諸陵寮の官人となるのが多い。
P67:天武八姓の目的は皇統親族の社会的地位の確立。
P72:大化3年より天武朝に至る間、「小錦」以上の官人になった者の殆どは「臣・連」のカバネを有した。ところが、天武初年の「進仕考選」の規定により、「造・直」等のカバネの者も小錦以上の冠位に昇る者が現れる。この位階昇進をめぐる紛争の解決策が天武11年8月考選における「族姓第一主義」
P74:八色の姓制定以後奈良時代を通じての改姓の諸例が、殆ど五位以下の者、四位以上は改姓は殆ど無い。
P78:天武朝以後六国史の改賜姓の氏を計算すると1200以上。特徴的なのは「個人単位」に賜姓が行われている。
P83:平安期に入り特定の氏のみが内位のコースを通って上流官人に成り得る様に仕組まれると、姓の尊卑よりも氏の名が重要になり、カバネを所有する意味も次第に薄れてゆく。
P84ー86:平安時代、どのカバネからも朝臣の取得が可能となると、朝臣と宿儺以外は全く魅力を失う。
P94:神別諸氏までもが天御中主神の子孫を主張するに至ると「帰化人」にもこれに追従する者が出た。
P97:延暦18年前後の姓氏関連の記事を見ると、農民が課役を忌避して、または蔭位にあり付く為に名を変えることが横行した。
P106:皇子・皇女を臣籍に下すのは全く当時の経済事情によるもので、臣籍に任官して皇室経費を省いた。
P120:鎌倉期古代の氏の名に代わって苗字が出てくる。
兄弟通字
P129:大化2年頃の農民の多くが、その支配者の氏の名に部を付けたものもって氏の名としている。→蘇我氏の部民は「蘇我部某」
P130:奈良時代の農民は(彼らの姓が自身のうちから生まれたものではないが)いずれも氏の名を持っていた。それの無いのは奴婢などである。
P140:エスキモーは人は「身体と霊魂と名前」から成立すると考えている。
P143:「大宝2年の美野国春部里の戸籍」:親子孫、兄弟の間に人名上のつながりが見られない。古代には人名に世代表示は無い。人名上に於ける世代表示は平安末期から鎌倉期の特色。
P144:シナに於ける昭穆制度:父と子、曽祖父と曽孫の廟主は相対峙した二系列の別に置かれることを要し、一方孫と祖父との廟主は同列をなす。昭穆制度は周の民族が血縁による父子継承以前に於いて、二分された昭と穆の二集団の存在を推測できる。
アボリジニの結婚階級
P145:古代列島には昭穆制度或いは結婚階級を比較する制度は見当たらない。
P152:人名に「国・嶋・石、「国生みの条」:古代人は嶋を身、国を面と表現すると共に、それを愛比売・飯依比古・大宣都比売・建依別の如く人間的に象徴している。
P149:熊・牛・猪は男性表示、蟲・馬は女性に用いられた。
P154:人間表示を持って人名とした型が、奈良時代前期の大宝天平年間に最高となる。
P155:「諸愚俗」(大化三年三月紀)
P168:氏族としての集団が持つ力は古代社会ほど、個人生活や家族生活に影響を及ぼす。
天智8年10月庚申に中臣鎌足が藤原姓を賜ったとき、直系尊卑族のみばかりでなく、鎌足を中心とした四等親の意美麿や大嶋の如きも藤原に改姓した。これに対して藤原仲麿が天平宝字2年に藤原恵美の姓に改姓したとき、藤原恵美を称したのは子供たちだけ。
P170:日本書紀や古代の戸籍を見ると、貴族と農民との間に全く名前の相違は無い。名によって階級を表そうという思想は、まだ当時には見られない。