従軍カメラマンの戦争

従軍カメラマンの戦争

従軍カメラマンの戦争
P79:帝人事件
P84:土門拳名取洋之助の留守中に、外務大臣宇垣一成の写真を自分名義で「LIFE」に送り、「フォト・バイ・ドモン」のクレジットに怒った名取に首にされた。
P89:ナチス政権に追われてアメリカに渡ったユダヤ系写真編集者等が「LIFE」を創刊した。名取洋之助が創刊時から「LIFE」の特約カメラマンとして寄稿することになるのは、ドイツ時代の実績と人脈があればこそ。
P90:「ルポルタージュ・フォト」を「報道写真」と訳したのは木村伊兵衛
P103:「五・四運動」(1919年)
P106:第一次上海事変は特務機関と関東軍が引き起こした謀略戦と判明している。
P109:「捕虜を捕らず、判断で処置せよ」ー内地の参謀本部では上海付近限定の早期停戦と企画されたものを、現地軍の軍令無視の暴走から上海から南京まで追撃戦が行われ、兵站・補給が追いつかない事態の延長線上に南京事件がある。
P110:南京陥落直後には入城式の際に松井石根朝香宮、柳川平助の3人が壇上で万歳する写真が掲載されている例があるが、
後に松井石根以外の主な司令官クラスの顔が全て消されて判明しないようになっている。松井石根が南京陥落後の早期に予備役に編入されたのは、虐殺問題の責任を取ってのこととする説は戦前から流布しており、軍内部で南京事件は事実として受け止められていた筈である。
P115:靴下に一升の米を詰め込む
P118:弾は上へ上へ上がる性質があるので、敵と遭遇したら身を伏せ、(携帯シャベルで穴を掘り身を隠してから)銃撃戦に入る。映画の様に姿を晒して撃ち合うことは滅多に無い。
P121:娘子軍ー「報道班員殿、どうもこの女、スパイみたいなので姦ってしまおうかと思うんですが、報道班員から先にどうですか」、「ふてえ女だから僕は強姦します。報道班員はいいですか」ー娘は皆で辱めた後に逃げるところを捕獲したモーゼルで射殺した。日本兵には稀に酷い奴がまぎれていたが、この娘を輪姦したうえ殺害した青年達も誠実で実直な青年である。
P139:上海戦からドイツを介した停戦交渉(トラウトマン工作)は続けられ、南京陥落の直前には蒋介石から屈辱的な停戦条件の受け入れるとの打診があったが、戦況有利と見た日本政府は交渉を決裂させた。
P143:戦争報道は弱小国・戦況不利な側が積極的に受け入れる。
P144:13年11月英文グラフ誌「SHANGHAI」
P147:昭和13〜14年の時点で対中国宣戦布告をしなかった(国際法規で定める「戦争状態」を避ける)のは日本への対抗禁輸措置を恐れて
P150:上海停泊中の英巡レパルス(?)のマスト先端(レーダー)と艦載機カタパルトの撮影、またソ連の暗号電報解読書の撮影を特務機関から依頼される。レパルスは日本商社の役員室から、暗号解読書は特務の対露班員が買収した上海露領事館員の宿舎で撮影した。
P165:太平洋戦争開戦の根本原因は中国から撤兵しなかったことに尽きる。対日経済制裁などは最終局面についてしか通用しない。
P172:バターン死の行進:米兵12000、比兵64000、比難民は3万
P192:国防献金
P197:義烈空挺隊は搭乗前に階級章を外す。決死隊ゆえ不要。
P207:「天皇陛下万歳」と言って死んだ兵士は「一人」だけしか見たことが無い。これを普段から叫んでいた奴は大概生きている。下士官などは新兵のときから死ぬ前に「天皇陛下万歳」と言うものだとされていたから、被弾したと思うとつい「天皇陛下万歳」が出てしまう。
P210:「奏任官、判任官」:奏任官だとメイド付で高級なアパート住まいと待遇が全く違う。
P212:バターン死の行進:フィリピン兵捕虜や傷病難民がトラックを満載したトラック写真ー全ての捕虜が徒歩護送というわけではない。”我々、日本軍の兵隊もトラックなんかないから、同じ道を歩いたんです。勝った日本軍でさえ歩いたのに、なんでアメリカさんを車で運びますか。だいだい、攻めているときから、バターンのジャングルの中に民間人があんなに居るなんて日本軍も知らなかったですから”ー横浜BC級戦犯(捕虜輸送担当の輜重連隊長)裁判の弁護人証人として証言ー
P219:大陸挺身隊ー中野学校出身の隊長、日本人40人、汪兆銘軍10人、人夫30人程からなる後方攪乱が任務、非占領地域に入り、同行する汪兆銘軍の兵士が日本軍に抵抗しないで降服するよう懐柔工作する。
「焼くな、奪うな、殺すな」ーこれが日常の日本軍に向けての啓蒙宣伝ー名取洋之助
P230:サイパン空襲に同行する軍令を拒否する。
P239:「僕も朝鮮人だから日本のやり方には文句があるけど、新政府(8/17建国準備委員会)の名簿を見ていたら、右も左も一緒だからこれからが大変です」
P248:カメラマンはシャッターを押したときのことはよく憶えている。
P260:緒戦のフィリピンは負戦だったので、米軍の保持する写真が無い。昭和45年「LIFE」から利用の引き合いがある。