喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生
P10:研究者間の室町時代は3代義満が管領細川頼之を罷免して政治的に独立する康暦の政変(1379年)から細川政元が10代義材を追放した明応の政変(1493年)までを指す。
P16:一般人でも稚児や遊女等、自分より目下の者に「笑われる」のを極度の屈辱と感じた。
P17:『看聞日記』伏見宮貞成(さだふさ)
P20:唱聞師(しょうもんじ)=民間の陰陽師
P21:『臥雲日件録抜尤』
P22:「孤露(ころ=孤児)」は町の構成員(の子)外なので共同体の保護下に無い。
P24:応仁の頃の少年はよく「腹這い」になって絵巻物に描かれている。
P27:下克上は主従の上下秩序よりも、自尊心や誇りの維持を優先してしばしば起きた。
P30:『日本巡察記』ヴァリニャーノ:日本人は憤怒の情を抑制し、胸中を深く隠蔽して、勝利となる日を待ち望む
P32:彼等(日本人)は鞭で人を罰することをせず。もし誰か召使が主人の耐えられないほどの悪事を働くときには、彼は前もって彼等の憎悪や激昂の徴を表わすことなく彼を殺してしまう。なぜならば、召使は嫌疑をかけられると、先に主人を殺すからである。(1577年9月20日ベルナルディーノ・フェラーロ宛、オルガンティーノ書簡)
P33:宇高有光
P37:1597年「長宗我部氏掟書」以前の制定法には「復讐公許」は見当たらない。−石井良助
P38:殺人の加害者は被害者を「親敵」として罪を逃れようとする者が多くいた。
P39:御成敗式目10条ー子が父祖の敵討ちをしたら、子も父祖も罰せられる。
P40:「〜号する」:中世人が主観的な正当性をを主張しているときの常套的表現
P41:「相論」、P42:復讐は公認というより「放任」されていた。
P43:”自害の事、題目を申し置き死に候は、遺言の敵、成敗を加ふべきなり”ー『塵芥集』34条
P47:一休宗純は(おそらく周囲の注意配慮を引く為に)21歳で琵琶湖に入水自殺、54歳に断食で餓死を試みている。
P48:米沢藩の「指腹」ー自害に使った刀を遺恨の相手に送りつけ、切腹を強要する行為。
P50:「図頼」:明・清朝、紛争当事者や親族が自害することで敵対者を恐喝する。
P50:「抗議の死」、「憤死」:欧米には無い、係争中の自殺は敗北を認めたのと同様の扱いである。日本人には主張の是非を判断するとき論理的に正しいかよりも、その主張にどれだけの思いを込めているかを基準にする傾向がある。
P52:応仁・文明の乱以後の徳政一揆の首領の多くは武家の被官
P54:武家の屋形・公家の邸宅は「治外法権
P56:「憑(たの)む」と言われて保護を求められたら断れない。
P59:当時のイエは、公家・武家を問わず、室町幕府すら容易に介入できない排他的小宇宙、寺社境内も聖域
P64:「文山立」ー山伏はほら貝を吹くと大勢友が集まってくる。
義経記』の弁慶は羽黒山の「御神体」を穢した因縁をつける。
P66:「墓所の法理」ー殺人被害者の属した宗教集団が犯行現場ないし加害者の権益地である土地を被害者の「墓所」として加害者側に請求する宗教的慣行。
P67:盲人集団が呪詛で抗議
P70:京の印地打ち(石合戦)『上杉本洛中洛外図』:前衛同士は槍・長刀・刀・弓を使っている。
P73:興福寺の学侶は「執行部」
P78:穂積陳重『法窓夜話』岩波文庫全二巻
P79:「アハト刑」→「平和喪失者」、「森の浮浪者」、「人間狼」、家族・氏族間の関係が絶たれ「私的暴力」が容認される。
P83:足利義昭は追放後に一揆に襲撃され所持品を奪われ、「貧乏公方」と嘲笑された。
P85:「落武者狩り」は公認:京の一般町人も白昼堂々と行っている。落武者狩りの慣行を利用することで、打ち漏らした敵の追撃に利用できた。
P86:秀吉は光秀が落ち延びてきたら討ち取れと「上意」を関係する地域に伝達していた。
P89:鷲尾隆康『二水記』天文元年八月二三〜二六条ー「笑うべし、笑うべし」
P94:「流罪」は「配流」先に着くまでに殺害される。
P112:自分の被官を妻敵(間男)討で殺害された赤松政則足利義政に訴えて、幕府法曹が出した結論が寝取られた夫の妻の殺害。この姦夫・姦婦の殺害は以後明治時代まで効力を持ち続けた。
P115:中世荘園での「犯罪=穢」
P125:「折中の法」
P126:「神明裁判」:室町期には「湯起請」が最も一般的
P132:「中人制と解死人制」
P149:「正儀世守」
P150:「陣の口をさへ許さるゝ」
P157:「本人切腹制」:室町幕府が自力救済抑止に採用した具体的な紛争処理原則
P158:「臣下の臣下は臣ならず」は日本中世社会も同様
P159:一条兼良『樵談治要』
P172:「故戦防戦法」:室町幕府は攻撃側と防御側を厳密に区別した上で、攻撃者の罪を防戦者よりも相対的に重くする原則を打ち立ててはいたが、次第に両成敗的傾向に流れてゆく。
「本人切腹制」、「故戦防戦法」という室町幕府が長らく志向した路線は完全に挫折し、中世人の衡平感覚、相殺主義の延長線上にある喧嘩両成敗法に道を譲った。
P182:「目を塞ぎ耳を塞ぎ堪忍いたし」
P183:喧嘩両成敗法を明確に定めた国分法は「今川かな目録」、「甲州法度之次第」、「長宗我部氏掟書」の3点のみ
P191:「未開から文明への転換」、「自力救済から裁判へ」
P201:「過失相殺」制度は世界的にはかなり「特異」なもので、日本以外では被害者側の過失が認められた場合は、一切の損害賠償は受けられない。
P202:大正11年に成立した健康保険法には既に「労使折半」が盛り込まれているが、その折半の根拠は諸説あり定まらず。
P205:「愛想笑い」ー「我々の間では偽りの笑いは不真面目だと考えられている。日本では品格のある高尚なこととされている」ー『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス
P206:中世日本人の劇場的で執念深い厄介な気質は、現代にも受け継がれているかもしれない。