寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世ー無縁・有縁・移民
P11:日本語は全て「仏典」から、媒介者は仏教の民衆化に携わった中世寺僧。日本文明と文化の大半は、古代王権からではなく、中世寺社から生まれた。
P15:延暦寺領は鎌倉幕府領よりずっと多い。
P16:歴史復元の「史料」とは、「命令書・契約書・借用書など法的効力のある証書」である「文書」と「公家の日記」、公家の日記は感想文ではなく、後の政治の参考にする記録で、役所や会社の稟議書や議事録で、証拠能力が認められる。
吾妻鏡』の幕府自身を語る「本文」記事を無批判に信じることはできない。だが、『吾妻鏡』には合戦報告書などの文書や公家の日記が「原文どおり」に引用されているのが解明されている。『吾妻鏡』は本文ではない「引用文」、編纂のもとになった素材が貴重。
P25:逃避行の際、義経は妻を伴い、山伏・児童に仮装していた。−『吾妻鏡』1188年10月17日条
P23:「花」といえば平安中期以後は桜のみを指す。単に「山」と言ったら比叡山延暦寺を指す。単に「寺」「寺門」と言えば延暦寺の仇敵「園城寺」を指す。
P27:平安期の『中右記』『台記』『玉葉』から室町期の『円太暦』までの諸日記の半分は「寺社に絡む紛争」の記事で、特に叡山の強訴や内紛の記事が圧倒的に多い。公家にとって寺社勢力はいつも政治の中心課題であった。
P30:「自由即死」:災害・貧困・失敗など「縁の世界」で行き詰まり、「移民」として辿り着いた無縁の場は自由競争の世界、弱肉強食のジャングルの掟の支配下
P36:鎌倉幕府に治安責任がある「京」とは、原則として「旧平安京」で東京極大路以西、祇園社清水寺の既得権をを崩せなかった。
P38:「獄前の死人、訴えなくんば検断なし」:これを以って中世人を野蛮扱いするのは不当である。近年までクラブ活動のシゴキ、いじめ、DVや児童虐待も人間が当事者でありながら、「猫の喧嘩」扱いだった。
P39:六角町ー60人の生魚商人は全員女。1343年常不動院の財産目録にある四条町の領地にある腰座商人4人は女。
P42:「墓所の法理」:被害者怨霊の祟りを鎮められるのは、その被害者が「所属する寺社」だけであると、日吉社神人殺害現場の「土地一帯=荘園規模」を被害者の「墓所」として叡山は獲得した。
P45:顕詮:説法を聴聞した後に、傾城(遊女)遊び(=精進落とし)
P46:1322年の「神人公事停止令」以前まで、神人身分の商人・職人は原則無税:免税特権というより課税の対象とされていない。商業課税が行われなかったのは、猫が鼠を何匹取ろうが課税しないのと同じで、鼠が資源と意識された場合には、課税当局の対応が変わる。歴史を見るには動物観察のような感覚が必要で感情移入は禁物。
P47:巫女:「神子」とも書き、男女の神子が、芸能の座を結んでいる。1446年、祇園社執行(しゆぎょう)の命で男神子が六条河原で罪人を斬首した直後に穢れを祓うことなく神前に出て問題になった。
P50:八坂神社は江戸期まで、感神院祇園社という、僧侶が神事を行う「寺院かつ神社」、長官代理の執行は「八坂造、紀氏」の子孫で、代々、法名を名乗る世襲の神官の家系、祇園祭の名も当時は「祇園会」
P52:地方学では、祇園地名があるところ即ち「都市」、という説もあるほど。
疫神たる祇園社境内にある鴨河原は疫病の発生源。一雨降れば洪水となり、病死した屍骸が腐敗して、疫病が再生産された。
P56:祇園会の「潤屋の賎民」:「賎民」が名誉を買えるようになる。→「有徳人」
P57:9〜11世紀、王朝貴族は地方政治を放棄し、国司(受領)に政治を丸投げした。中央の有力者に莫大な賄賂を贈って任官した国司は、4年限定の独裁者として地方に君臨した。
P62:(著書曰く)不入の実効があるものを「寺社勢力」、政治権力に寄生する寺社を「御用寺社」。
1070年2月20日、東山、鴨川西岸の堤、五条末、三条末に亘る広域を、祇園社がその「境内」として領有することが認められ、巨大な不入地が誕生した。この京における「無縁所第一号」の法的成立を以って、「中世の開幕」と考える。
P65:「叡山門前としての京」
P77:『太平記』の原型は室町幕府が編纂した歴史書
P78:『平安遺文』収録点数僅か5000通、内95%が寺社所蔵文書である。奈良・平安の朝廷文書と鎌倉幕府文書は1通も残っていない。文書の不在から鎌倉幕府直轄領の年貢率さえ解らない。寺社文書と貴族の日記によって幕府の姿がぼんやりと浮かび上がってくる。延暦寺文書が焼失したのは政治史の研究にとって大きな損失であった。
P83:『洛中洛外図』には、寺院は全て瓦葺、御所・内裏・管領邸が檜皮葺、町屋は板葺、農家が茅葺または草葺、と明瞭に描き分けられている。風俗の違いではなくステイタスの反映。宮殿・御所建築でも、古い時代ほどに掘立柱建築が多く、基礎に礎石を使うことは少ない。寺院を越える豪華建築は安土城以前には皆無である。
P85:1166年、中世最初の山城を建設したのは比叡山で、武士の城館建設に先行する。
P86:比叡山僧光僧は『渓嵐拾葉集』の中で、自分は仏教以外に武術・医学・土木・農業などの俗学を学んだと述べている。ルイス・フロイスは叡山を「日本の最高の大学」と欧州の大学都市の姿を見た。
P88:東大寺境内の宅地一部が1163年に僧林俊から俗人女性「平姉子(たいらのあねのこ)」に売られている。
P90:女人禁制も建前の域を出ない;高野山でも戦国時代には境内の宿坊に夫婦で参詣人が宿泊している。
P90:寺院境内・門前は「難民キャンプ」:1459年、高野山は会堂の縁(えどうのえん)にたむろする行脚・乞食に対し、中心地域からの立ち退きを命じたが、「境内」から出て行けとは言わない。「自由即死」の中世社会にあって、生存できる寺院空間は唯一の優しい空間。
P91:「境内都市」「寺内町」:大寺社が全て都市と言えるなら、平安末期の近畿地方南都北嶺ほか、四天王寺など無数の都市に満ちた都市社会。
P92:1586年に身を寄せた顕如の日記に拠れば、高野山には7000坊の子院がある。一坊の居住者を10人として人口7万。
『日葡辞書』
P98:根来寺(地下)は1585年の境内都市のタイムカプセル
P101:「承元の法難」:弾圧に際し相手を性的に貶めるのは権力の常套手段である。信長も比叡山焼討で同じ口実を使っている。
中世寺僧は「発心して出家した個人」の集合ではなく、僧の家という世襲の職業集団。期待される僧侶像は前者であっても、それは例外である。
P102:確認できる日本最古の「果たし状」は興福寺比叡山に出した承安3年(1173)11月「尊経閣所蔵興福寺牒状」ー『平安遺文』7巻3646号文書
「三塔名誉の悪僧」、『平家物語』『今昔物語』とも寺僧の武勇を、武士のそれと対等に描く。
「検断得分」
P110:荘民が最も嫌ったの税は年貢ではなく「労働徴発」、特に農繁期・農閑期を構わずかかる「軍役」。公家領荘園が早く武士に奪われたのに対し、寺社領荘園は戦国時代まで存続する例が多い。
P111:1581年京都御馬揃の順序は『信長公記』によると、1番丹羽長秀、2番「根来の中の大が塚」、3番明智光秀、4番「根来」
P116:日吉神人の金融:債務者には国司が多くいて、一国の年貢全部が借金の担保になったりしている。
P119:894年遣唐使廃止は、民間貿易が盛んになり遣唐使の必要が無くなったというのが実際である。この貿易利権で一番潤ったのが太宰師(だざいのそち)。
『往生要集』は敦賀経由で中国に渡り、かの地でブームを巻き起こした。
「押借」:物価値上がりと貨幣価値下落を見越して、通貨を安い利率で借りる。
P120:1372年、明は倭寇の取締を要求する国書を、九州を支配していた南朝懐良親王を国王と誤認して「日本国王良懐」宛と出す。別に「日本天台座主」宛もあった。
「寄沙汰(よせざた)」:訴訟当事者が他者に訴訟名義人を替わってもらう。原告が弁護士名義で訴え、被告も弁護士にすり替わる。幕府は厳禁していた。
P124:仏陀法・神明法:いかなる手段で獲得したものであろうと、一旦寺社のモノになったら、永久に寺社のもの。
「日本国総菩提所」と呼ばれた高野山奥乃院には、墓所の破壊と造成が繰り返され、50万基とも謂われる無数の廃棄石仏がある。根来寺でも墓石をドブの蓋として無造作に使っている。墓所の管理者(寺僧)は墓石をモノや利権としか見ないようになる。
「破損穢気」:公家にとって呪術シンボルの日吉神輿は恐怖の的だったが、叡山の山僧は(古い)神輿を故意に汚すか・破損させて「破損穢気」を嫌う朝廷に修理させた。山僧は神罰など全く恐れていない。1315年に日吉神輿7基の造営費用は合計約6500貫、祇園会の総経費は300貫と比較すると非常に高価である。
P132:『明月記』に、1226年に前中将忠嗣の群盗行為、1227年三河権守清綱の強盗罪、1233年四位平仲兼の従者全員が群盗であったとある。武勇も粗暴も、構造的な貴族の体質。1496年前関白九条政基は執事の唐橋在数を借金を踏み倒す目的で斬殺した。
P133:幕府によって皇室領・公家領・寺社領荘園に配置された地頭が「権断得分のための権断」を行使して、(大方無実の)百姓を捕らえては、その土地を奪い荘園を侵略した。この弊害で、荘園農民の逃亡が多発し、常に難民が発生する構造となる。
P134:山口組の田岡一男は治安維持への貢献により、兵庫県警水上暑の一日署長になる。
P135:残存史料に即していうならば、寺院史は書けるが、幕府・朝廷史は書けない。
P136:歴史書には財界記事が皆無。
P139:学侶=教学研鑽を本務とし、貴族・武士・富裕民の出身、衆徒・学匠とも呼ばれる。行人=公式行事の雑役に従事する。武士より下の出時、堂衆・法師原・夏衆・花摘など雑多な名称で呼ばれる。聖=定住地を持たない。寺院の信仰と権威を背負って、寄付・参詣を勧誘する。山伏も同じ。
P140:1310年高野山「修正餅支配注文」ー修正会で配分される餅の受領資格者(=高野山正規僧)は、長官の検校以下の学侶約400人、行人は、職掌を持つ「預・承仕・夏衆」3141人、雑務担当の「雑僧」2236人、聖は100人だがこれは寺の保護を公的に受ける有資格者における「聖の定数分」で諸国廻向者は行人合計数を上回る。
P144:1213年清水寺清閑寺間境界争いでの逮捕者中、「修学者」は即日放免だったが、「下法師」は検非違使に勾引された。身分により刑罰が異なる。
P145:1413年高野山「一味契状」−外来者の住宅建設の禁止:中世は「兼修・雑修」が特徴なのに、学侶は都市問題を宗教問題にすり替えて見せている。
P147:境内都市の実権者が「庶民=行人」となると、無縁所は権力から嫌悪されるようになる。
P153:朝鮮半島にも熊野の末社があった。
宗旨を異にする一山の学侶・行人・聖の結束とは経済的利益による。
P164:寺社勢力としての比叡山創始者最澄ではなく18代座主の良源。
P170:幕府・朝廷は寺僧・神人の名簿と住所の把握を試みるが、これを秘匿することこそが境内都市のテーマであり、これこそが成員から見た境内都市の存在意義。
P172:各地に「ヤマフシノハカ(山伏の墓)」という地名があるが、墓所の法理が適用された場所の痕跡か?
P173:雑務である「行」を行う「行人」には宗教の「学」をめぐる対立など無い:15世紀末、根来寺高野山粉河寺の行人が集まり、共同経営の金融業を営んでいた。宗教史的な見地からこの共同経営を説明することは無意味である。
P182:世界の飢饉はほとんど例外なく、農村部で起こっている。一次産業の少ない都市部における大量餓死は極めて珍しい(藤田弘夫『都市の論理』)。商品流通システムが成立した後には、都市のほうが、凶作に直撃された農業地域よりも、優先して食糧供給を受ける。
P186:農業的基盤を全く欠いていた「富士吉田」や比叡山高野山の山上も中世には「(P182に定義される)資源」のある場所になった。
網野は境内都市を無縁所と見ていない。
P194:寺院史を考える際には「学侶史」など不要。いかに論を尽くしても参詣人は来ない。
P207:「神風」は律宗西大寺の「叡尊」が神々に命じて吹かせたものと当時の朝廷・幕府は信じた。
P226:「家の歴史」、「村の歴史」は室町時代後期から始まる。古代の村は国造出身で律令制下で郡司を務めた古代豪族の大家族を代表とする家族と、その所有地である古典的有縁世界である。この村と家は「王朝の悪政」で跡形も無く破壊された。
P229:境内都市と寺院都市の決定的な違い:寺院集会の建前は構成員の平等である。自治組織は貧富の差と身分の不平等をそのまま固定している。「自由」なのは一部の限られた人々で「宮座」のメンバーになり、その地位を保つには、毎年多額の出費が生じた。この自治都市の特権層は兵農分離後に武士・本陣・庄屋などになる。自治都市での家の成立は、同時に身分制度の創設をも意味した。
1537年賀太で宮座の置かれた春日神社の神前において、23人の名主の「永定」が行われた。永久に名主をこの23家に限るとした特権家筋の固定で、家格制の成立であった。身分制を国家ではなく、自治都市や自治村落が創設したのは、世界史的に非常に珍しい出来事。
P234:下層身分の者が最初にタブーから抜け出す。
P239:南北朝時代とは違い、1571年9月12日の焼き討ち当時、叡山は軍事的脅威では無かった。実際に交戦した石山本願寺は講和している。信長の意図は無縁所の破壊で、1571年、荒木村重の家人が高野山に駆込んだ際、直接攻撃が叶わず、その代わりに廻国の荒野聖1383人を捕らえて処刑した。
P242:中世の終焉は兵僧分離と無縁所が永久に否定された1588年7月8日。
P248:1789年、ルイ16世が170年ぶりに召集した特権身分の課税可否を問う三部会では、第二身分の貴族と第三身分の平民が真っ向から対立し、第一身分の僧侶がキャスティングボードを握ることになった。貴族出身の司教で40000リーブル、村の司祭は750リーブルの年収があった(勤労者年収が3〜400リーブル)。平民と年収のそれ程違わない「司祭」は司教を第一身分の代表者として選出することを拒み、同僚に投票した。司祭で占められた第一身分は平民に同調、これがフランス革命を大きく前進させることになる。
P248:中世で唯一「自由即死」でない空間は寺院境内である。寺院が救済とヒューマニズムの場であり、障害者が生活できるようになったのも中世になってからである。
P249:感動は無縁の状況にのみ存在する。魂を揺るがす文化は、みな、この『無縁』の場に生まれ『無縁』の人々よって担われた。
P254:”人間の全ての感情、全存在を、縁・国家・会社などが、制御する時代など決して来ないだろう。・・・・をこの力学は未来永劫に働くだろう。無数の敗者を生み出しながら・・・”