死者のゆくえ

死者のゆくえ

死者のゆくえ
P7:蓮台野(デンデラ野)
P10:柳田國男が『先祖の話』を書いた背景には、戦時下で崩壊しつつあった「家」に対する強い危機感。
P15:「高間原」は山上の平地:山中他界が一方で、天界の高間原に変質し、一方では仏教化して諸仏諸菩薩の浄土になった。(五来重
風葬の風景)
P25:「不浄観」−死体を仔細に観察する修法。
P31:墓を造営することが可能な階層でも、希望すれば「大蔵=散骨」を許す。「葬喪令」
P36:蘇生可能な仮死期間の限度は9日、特別な修行を積んだ者でも最長13日が限界。
P37:『小右記』万寿2年(1025)8月記事にある藤原道長が行った「魂呼」について、日記作者の藤原実資は「近年はこういったことをした話を聞いたことがない」とあるから、平安時代半ばには「魂呼」は廃れていたのが窺える。
P39:「魂結び」
P43:誰もが規格内の(77日=49日)日数で魂の浄化が完了すると信じるようになる。
古代、遊離魂は蛍や蝶に譬えられた。
P44:堀一郎は『万葉集』の「挽歌」には「山に隠れる」、「雲霧に乗って天に昇る」と「死者の霊魂が高きにつくとした着想が著しい」と指摘。この頃、仏教は死後霊魂の行方や他界観には関与していないと結論する。
万葉集』の中で、鳥が空を飛翔するように霊は移動可能な存在と観念され、成仏できずにさまよう霊といった死者に対する否定的な雰囲気は認められない。
P47:死後の「イザナミ」:『日本書紀』とは異なり、『古事記』では遺体と死後の人格が別の物として捉えられている様に読むことができる。
P49:黄泉はヨモツヒラサカ経由で往復可能な徒歩圏内:家永三郎「太古人の思想にとって、あらゆる世界とは現実世界と空間的にも性質的にも連続するものとして映じた」
国分尼寺は「法華滅罪」の寺:古代の最初に『法華経』が注目されたのは「滅罪」の機能。
P51:縄文時代前期の環状集落の中心にあるのは「墓」:縄文貝塚とはゴミ捨て場と言うよりも、生命を失ったモノの置き場所(西村1965)、縄文後期(4500年前)から墓地が集落を飛び出して、日常住居から独立する。
P54:ある段階まで、縄文人にとっての死者は、活動を止めた「仲間」である。生者と死者は空間・世界を共有していた。
(カミとなる死者)
P61:近藤義郎「首長霊継承儀礼
広瀬和雄”外来神によって、カミとしての不老長寿を約束された亡き首長は、ひときわ肥大化した後円部のなかに座して、共同体の再生産を念じ続けるという「共同幻想」がひろく敷衍されていた”
白石太一郎”遺体を墳丘上部に置くのは、中国的他界観とは異質、木棺周囲を囲った銅鏡の鏡面は遺骸に向けられている。”
P66:帝王の葬儀に決して火葬を用いることの無かった中国と違い、持統天皇から始まる王者の火葬にあたって、激しい議論や文化的軋轢が生じた形跡は無い。この背景には肉体と霊魂を分離して把握した上で、肉体の方を軽視する長い伝統があった。
P67:古墳の樹木損失が祟りに直結すると捉えられている。木々が霊魂の依り代と観念されていた。
P70:『記紀』においては神々が「−柱」と数えられている。
「チ」「ミ」「タマ」
P75:『記紀』にあるワニザメやヘビなど、動物の血を受け継ぐカミの子孫(天皇、首長)としての祖霊観念の成立は、自然神と祖霊の融合による祖神ー人格神の誕生を象徴する出来事と推定する。
古墳造営の最盛期には、埋葬者の霊魂(カミ)が墳丘に常駐するという感覚は人々には共有されていない。古墳が完成すると、その維持管理に関心は払われない。
P77:今尾文昭「藤原京造営に際し、京域内にあった古墳のうち、残されたものと、削平されて痕跡を留めないものがあり、皇統の再編成が行われたか?」、見栄えの良い巨大古墳を無関係な歴代天皇の稜に仮託していった。が、稜墓の指定から漏れた雑多な古墳は消された。
P78:天照大神の「まなあ(霊魂)」が儀式を通じて、新天皇の体内に入り込むとする折口信夫の「大嘗祭論」は今日では否定され、「天皇霊」は天皇を守護する皇祖の諸霊と考えられている。
日本書紀』の壬申の乱で神武稜に馬と武器を奉納する記事は、守護神としての天皇霊の観念発生と、天武ー持統の代に神武稜への祈願を勝利の要因とする認識があったと読み取れる。
P83:岡田精司「古代に国家的祭祀の対象になった神々には、祭りの前後に送迎する儀式を欠き、年間を通じて巫女が奉仕する。これは祭りの時期にだけ出没する民間信仰の神々とは違った発展を遂げた結果である。」
P85:『続日本後紀』承和9年(842)7月19日条で日照りの原因は伊勢・八幡神の祟り
P86:天皇が聖別されたとき、巨大な墳墓を建立することによって、その権力を確認してゆく作業は無用となった。
P87:怨霊は8世紀に出現:死者霊が特定個人に対する報復のレベルを超えて、広く社会に甚大な影響を与えると信じられるようになる。
P91:平安時代後半に密教陰陽道の修法が発達したのは、急速に深刻化した怨霊調伏。
P92:淳名天皇は没して「精魂」は天に帰り、塚に残った遺体に「鬼物」が憑いて祟りをなすのを防ぐために、骨を砕いて山中に撒くように命じている。遺骸と魂を切り離す思考方法は上下の身分を問わず、ある程度に広くに共有されていた。
(納骨する人々)
P105:国家の庇護からはじき出された官寺が、生き延びるための切り札としたのが「垂迹」。聖人−垂迹を祀る寺院内の”見通しの良い”場所・施設が後の「奥の院」。
P107:骨や遺体を埋葬し、墓参りなど継続して供養するのは極て稀なこと。実際、平安時代には多くの天皇稜が所在不明になっている。
P110:最初期の納骨の場は垂迹の鎮座する霊地。「五輪塔」「廟堂」「経塚」も垂迹の所在地と見做された。
P111:神社もこの世の浄土とされたが、神社への「納骨」は忌避された。
P115:”遺骸が白骨化しようとも霊魂は悟りを開かない限り、基本的には遺骨と一体化してこの世に留まっている。霊魂を救済するには、その依り代というべき遺骨を霊場に納め、垂迹の力によって彼岸に送り届けてもらうのが、最も確実な救済の方途なのだ”
古代とは異なり、中世では骨と魂の結びつきは、死によっても容易に解消し難いものになっている。
P116:反魂の術:「死→骨→魂の離反」を逆にすると生きた人間を作り出せると信じられた。
P117:霊場への納骨を経て浄土往生が成就する:遠い道のりを苦労して納骨を果たしたにもかかわらず、ひとたびそれが済んでしまうと、その後の骨の行方には関心が払われることは無い。
P118:地獄の閻魔様も垂迹なので、閻魔の究極の目的は、衆生を浄土に送り届けること。また、閻魔の居る地獄も娑婆世界内部の空間なので往還は容易。
P122:「墓所の法理」も殺害現場に霊魂が留まる観念を窺わせる。
P126:鎌倉期に摂政・関白を勤めた九条道家は、自身の没後に財産処分を定めた遺言状に背く子孫がいれば「罰」を加えると明言している。「九条道家惣処分状」ー一族やイエ内部で特別の地位を占める者は、(カミとなり)死後もこの世に留まって監視を続ける。
P127:インド以来仏教に付随してきた仏舎利信仰とは全く異なるところから、一般人の骨に光が当てられてくるのが中世という時代。
(拡散する霊場
P131:最古の板碑は埼玉県大里郡江南村で発見された嘉禄三年(1227年)のもの。全ての板碑に共通するものは種子(=梵字)。
P133:”塔婆も卒塔婆も、共に現当二世(生者の逆修と死者の追善)の安穏を願い建立された。建立者はその功徳で滅罪・長命し、死後の安穏が約束され、供養される死者は塔婆の力に触れて、苦界から抜け出すことが可能となる。”
P136:仏像建立は現世に来世への通路を設ける行為で、往生極楽に直結する善行であると信じられた。平安時代の後期に丈六の阿弥陀堂の建立ラッシュが起こった理由でもある。板碑も仏像と等質ならば、「板碑もまた垂迹」と捉えられた。
P140:慈覚大師の開基ないし中興の伝説を持つ寺院の多くは、11世紀後半から12世紀にかけて天台系の聖によって再興または創建されたと思われる。
P146:『餓鬼草子』の墓地には五輪塔や塔婆が立ち並び、一見すると捨て置かれた如くにみえる死体も、その地に運び込まれること自体が追善の行為であり、「地の霊験」(『釈門秘鑰』)によって、往生が実現すると信じられていた。
P149:”中世では聖性を感じさせ畏怖の感情を引き起こすあらゆる存在が、みな本源の仏の垂迹(生身)と信じられた。古来の霊地であった古墳墓もまた、そこが共同墓地化する前提として、彼岸と此岸を結ぶ垂迹の聖地と観念されるようになっていた可能性は大きい。”
P150:中世の供養塔は万人に対する<開かれた>性格において、第三者の結縁を完全に拒絶する<閉じられた>近世の墓標とは決定的に違う。
P156:「化粧坂」=境界の地、現世と異界を分ける場所→ヨモツヒラサカ
P157:法然親鸞日蓮は病気治癒や延命などの「現世の問題を垂迹に祈願する」ことを否定はしなかった。が、究極の救済については、聖地を踏んだりこの世の神仏に祈ることを拒んだ。法然は中世の神々が持っていた2つの機能−現世利益の供与と浄土への道案内−のうち、後者の役割を否定し、任務を前者に限定したその上で、最終的な「救い=浄土往生」は、ただ本地仏と直接向きあうことによってのみ成就されることを強調した。
・浄土信仰に垂迹が介在する限り、財産・身分・階層・生別などの世俗的な条件が「救済の差別化を再生産」し続ける。
・専修念仏の祖師や日蓮も死去すると、やがては「垂迹」とされてしまった。
・真心込めて回向すればどんな行でも、往生の因となりえるというのが、当時の認識だった。中でも確実視された浄土往生の方法が、自ら垂迹を造り出すことであり、垂迹の鎮座する聖地=霊場に足を運ぶことだった。
P166:松島・雄島西海岸干潟を探索した新野一浩は、極めて狭い範囲から101点の板碑を発見する。
P172:板碑の後には特定個人の遺骨にのみ対応する「小型一石五輪塔」が登場する。やがて、石塔は、不特定多数の霊魂救済を目的とした「供養塔」から、特定個人の遺骸・遺骨に個別に対応する「墓標」へと、その性格を転換させている。
P182:柳田國男の祖霊観は列島に一貫して存在する「日本人」のそれを示したものではなく、江戸時代以降に新たに形成される霊魂観を前提として形成されている。
P183:一切の作善を放棄して、悪人としての本性をありのままに見つめることこそが救済につながる「悪人正機説」の思想において、倫理道徳は救済の条件から完全に除外されていた。しかし、江戸時代の往生伝では、世俗道徳が不可欠の役割を持つようになる。
P187:本堂と奥の院を主要な焦点とする中世寺院に対し、近世寺院は等質な現世利益を分有するさまざま神仏を寺院内に抱え込んだ。霊場参詣の作法も、一つの霊地への参詣を中心目的として、住居とその地点の往復が一般的な形態だったが、近世の霊場三十三観音、四国八十八ヵ所ように、一つの境内、一定地域に点在する聖地を周回する形式に変化する。
P188:新潟弥彦神社「古縁起」:近世の神社は彼岸への通路(=社壇浄土)としての機能を失う。葬儀に関与しない神祇信仰は死後の世界を担当する仏教に対して、生前の祈りに応える現世的側面を強調すると、両者の役割分担は進展する。神祇関係者が仏教との異質性と日本固有の信仰として独自性を主張する社会的基盤は、こうして形成された。
P190:「布橋灌頂会」の「立山に往生する」は死とは無縁で、精神の安堵を得る比喩的表現。布橋灌頂の儀式は、死後と彼岸表象が周到に排除されている。
彼岸世界の観念が色あせ、死者の行く地は彼岸浄土ではなく、この世の依り代である墓標に留まる。
P192:中世に発達した火葬骨の埋葬を中心とした大規模共同墓地は近世には放棄される。
永続するイエ観念が庶民にまで浸透し、死後も子孫の供養を期待する感覚が共有されると、死者と遺骸・遺骨が完全に一体化する時代が到来する。
文久の修陵」:権力が主導する政治的な事業もまた、同時代の死の観念に深く規定されることになった。
P194:「詣り墓」の誕生は、中世霊場信仰の延長線上にはなく、また死穢の忌避とも結びつかない。
・中世の基本的は墓制は「埋め墓」のみ、霊場に火葬骨の埋葬・納骨が済むと忘れられた。
P198:中世では、霊魂は遺体や骨を離れて遠い世界に旅立つことが理想とされた。遺骸に魂が残留するのを好まなかった。しかし、近世になるとその観念は一転し、死霊は遺体と一体化あるいは墓標を依り代に、この世の定められた場所に眠り続けることが希求された。
P205:「日本人は骨を大切にする」は骨をモノと扱う古代人には通用せず、「死者が身近に留まる」は遠い浄土への旅立ちを願った中世人には無縁、この三者に、死者や霊魂をめぐる共通の観念を見出すのは、不可能である。
P205:(日本における)葬儀礼の変遷の背後に「野蛮」から「文明」に至る「進化」の過程を見出すのは「誤り」である。
P210:「草葉の陰で眠る」は江戸期以降の観念。
P219:フィリップ・アリエス『死を前にした人間』、『図説 死の文化史』
P224:目に見える「儀礼」とそれを支える目には見えない「精神文化」が一体として把握されてから、死の観念をその全体性に置いて理解することが可能となる。
ボガトゥイリョーフ=P.G『呪術・儀礼・俗信』千葉栄一訳、岩波書店
・聖が「共同体や有力者」から営業活動を「家や個人」へとシフトさせたときに、営業品目も他人数用途の「垂迹」販売から個人向けの「墓標」に変わったか?、浄土と「垂迹」を切り離なした専修念仏の勝利と捉え、個人と阿弥陀如来が直接に結縁したときに、垂迹の代替が「墓標」となったか?