ブーヴィーヌの戦い―中世フランスの事件と伝説

ブーヴィーヌの戦い―中世フランスの事件と伝説

ブーヴィーヌの戦い
P36:この時代の随分前から、墓の副葬品に馬具を埋葬する風習は廃れていた。また、諸侯は屋敷に使わなくなった古い武具を保存する習慣が無く、リサイクルした。戦の道具に関する知識は全て、図像に由来するのもである。
P39:戦死するのは領主命令で動員された「コミーニュ=共同体」の軽装備歩兵。
P40:軍旗、陣羽織が失われて、正体が不明になった戦士は兜の隙間から自分の名を叫ぶ必要があった。
P48:武装した高位聖職者2名(ボーヴェ司教フィリップと僧侶ゲラン)が参加している。流血を避けて剣は持たないかわりに、はばかることなく槌鉾を握った。
P94:・・・戦うとは採集、狩猟と同じことであり・・・資源を増やす手段だった。・・・平和とは、やむをえない偶発的中断に過ぎなかった。この一時的休息には、通常は戦争を通してなされる富の移動が別の経路をたどり、贈与と返礼、婚姻交流、商売の形を取る。・・・紀元1000年頃、キリスト教化された西欧において、戦争が突如として悪いものと看做され始めた。
P105:1182年の冬、ル・ピュイの大工の下に組織された「白頭巾講」
P129:傭兵集団こそが、当時の貨幣流通に貢献し、それを膨張させ、通商の持続的発展を維持した、宝物殿開放のめざましい要因なのである。ダン=ル=ロアで合流していた傭兵集団7000から10000人を「平和の組合」が包囲し殺害したとき、(平和の戦士が陵辱してから殺した)豪華な衣装(僧侶の祭服)を纏う500から900人の売春婦の死体が残った。
P130:「戦闘の技術と刀に関して彼ら(傭兵)は貴族に劣ってはいない」ー『歴代フランドル伯の系譜』
P140:騎士は結婚するまで騎馬試合を続けた。
P142:フィリップ・オーギュストは生涯に一度も騎馬試合をしていない。リチャード獅子心王も1194年の騎馬試合には異母兄弟のソールズベリ伯を代理にしている。教会に批判される世俗の娯楽が国王の威厳にふさわしいとは、誰も考えなかったのである。
騎馬試合は、14世紀までは一騎打ちではなく、誰も一人では戦わない「混戦」、それぞれが標識と武将をもつ集団の衝突。ボードゥワン・ド・エノーは当初80名の仲間から初めて、2年後には騎士200名と歩兵1200名を従えて巡業競技に流浪した。−紋章が急速に普及したのは、戦争ではなく、騎馬試合を通じてなのである。「騎馬試合」という新語が作られるまでは「市」が用いられた。
P149:捕虜こそが格段の儲けになるため、相手を酷く痛めつけないよう、誰もが気をつけてはいた。
P170:12世紀、戦時の殺人が平時の殺人よりも正当であり、たいした結果をもたらさないと考えるものは皆無である。落命は稀である。1127年の伯シャルルの暗殺以来、1年以上に渡ってフランドル伯領全土で1000人を超える騎士が争うが、事件渦中で詳細な記録を残したガルベール・ド・ブリュージェによれば死者は「7人」で追跡の最中に敵の手で落命した騎士は「1人」、騎士4人は落馬、城壁からの転落、天井の落下、角笛を吹くのに力が入りすぎて古傷が開いた等の事故死。残り2人は騎士ではない。ー傭兵射手の弓が恐怖の的であるのも、装備の不十分な歩兵に重傷を負わせるから。
P184:プレミュールには騎士900人が参戦し死者3名「・・・相互に手加減しあった。・・・逃走者を殺すよりは捕らえようと努めた。」オルデリク・ウィタリス
P195:聖地で異教徒と行うような効果的な戦争の専門家である僧侶ゲランは、敵フランドル部隊に対し250人の騎乗従者の精鋭を突進させた。
P196:ブービィーヌの戦場で落命した騎士は「フランス人を殺せ」と叫んで、ピカルディの騎士らに刺し殺された「ユスタシュ・ド・マランジャン」と偶然に小刀が兜の眉庇の間に刺さって死んだ「エティエンヌ・ド・ロンシャン」
P199:・・・実際、ほとんど全ての騎士は、実父、義父、兄弟、従兄弟、あるいはかつて封土の主君として認めた者の軍旗を相手の集団の中に見出す。・・・打撃を加えるのは控えるべきであろう。
P201:フィリップ・オーギュストは(味方が捕虜の捕獲に没頭しないよう)逃げる敵を一里以上追いかけるのを禁じた。
P202:ギョーム・ル・ブルトンの叙述からヴェルブルッヘンが収集した一騎打ちは僅かに5例で、決闘は稀少だった。