戦国時代の大誤解 (PHP新書)

戦国時代の大誤解 (PHP新書)

戦国時代の大誤解
P16:山本勘助の息子が『甲陽軍鑑』をでっち上げた。戦国時代に、参謀長的な軍師というポストは無い。
P18:(自称、宇佐美氏子孫で)紀州徳川家軍学者大関定祐が、幻の大軍師「宇佐美駿河守」を創出する。徳川宗家の担ぎ出した信玄の遺法「甲陽軍鑑」に対抗して、紀州家は謙信「北越軍記」を持ち出したのである。
P26:『改正三河風土記』:秀吉は与介の名で泥鰌売り
P69:賤ヶ岳では前田利家の「退却=裏切り」で柴田勝家側が総崩れ
P81:伊達政宗は(1615年5月)大阪の陣で、味方の神保相茂が手柄を納めて引き上げてきたのに腹が立ち、その主従30数人を撃ち殺している。薩摩島津家に政宗は「比輿」とある。
P147:加賀「百姓ノ持タル国」(実悟記拾遺)、紀州雑賀「百姓持に仕りたる国」(二鬼島道智「昔阿波物語」)
P182:大阪の陣の体験者で風伝流槍術の国枝重隆曰く”槍はただ打ち伏せるだけで勝負が決まる”。加賀藩槍術師範の関谷新兵衛は、相当の腕前になるまで弟子には絶対に突き技を教えず、槍を振り上げて敵と敵の槍を叩くことだけを稽古させた。幕末動乱の水戸藩尊皇攘夷派遺族によると、”もっぱら叩いて使い、槍で敵を突き伏せた話は聞いたことが無い”。叩く構えは右足右手が前になる。
P183:刀は片手:整地された庭なら両の手で構えることは出来る。これが起伏のある場所になるとバランスを採るのが容易ではない。戦場では始めの二振り位までお行儀良く両手で振っても直に片手になる。
P193:騎馬弓兵(左手に弓)は右の鐙から騎乗する。
P197:甲冑は敵地・戦場近くまでは非着用で行軍する。『天元実記』
・火縄銃は左肩に担ぐ