「現人神」「国家神道」という幻想 近代日本を歪めた俗説を糾す。
P29:「八紘一宇」:「八紘を ひて宇と為む」の言葉が始めて紹介され、これが国内外に対する態度をも表明したものであるとの解説が現れたのは、S18年のこと。「神の国」が小学校日本史教科書に登場したのはS15年で、修身教科書にはS16年に登場する。明治36年の教科書では元寇の際に吹いた風は「大風」と記述されているが、昭和9年に「神風」に改まる。昭和15年の教科書になり、北畠親房が『神皇正統記』を書いて、「わが国が神国であること」を説いた人物であるとされるようになった。
P32:「大教院分離運動」:真宗以外の仏教各宗は神仏合同布教に異議は唱えていない。
島地黙雷”皇室を尊奉する以上はその祖先である天照大神をも崇敬するのは当然であるが・・・”
P33:仮名垣魯文『三則教の捷径』、国民「神孫」論は明治20年代以降も、民間で出版された「教育勅語」の解説書に度々登場している。
P34:明治14年、出雲派と伊勢派の抗争は明治14年2月、勅裁を仰ぐ
P40:・・・井上哲次郎は思想の自由を重視して、君主といえども臣民の良心の自由には干渉できないから、「教育勅語」は勅令ではなく、天皇の社会的な著作として公表すべきと提案したのである。
P47:内村鑑三の不敬事件や久米邦武の「神道は祭天の古俗」事件で、両名を離職に追い込んだのは激高した学生・教員、民間の神道家や国学者で、そこに政府の積極的な関与を読み込むのは強引すぎる。政府は彼等をただ”守らなかった”だけである。
大正10年『国体論史』(内務省神社局)
P54:「現人神」の創作者ー加藤玄智、「現人神」論者ー上杉慎吉
P59:「八紘一宇」の提唱者ー田中智学
P73:・・・日蓮の影響を無視すれば、石原莞爾の思想と行動、さらに太平洋戦争に至る日本の政治史の重要な一面が欠落すると思われる・・・(五百旗頭真
P74:・・・共産主義個人主義日蓮宗その他の宗教思想等の影響を抜きにして、明治以来の「神話教育」「現人神教育」といった先入観で昭和の思想問題を語っている人々は全く間が抜けているとしか言いようがない。・・・
P72:”明治末期の、だいたい日露戦争期から大正初年ぐらいにかけて、いわゆる「煩悶時代」という時代がありまして・・・藤村操が煩悶の末に自殺したあたりから、この煩悶青年のたちのなかに、「昭和超国家主義」の第一世代の人々はほぼ含まれいる。
P80:同志社大学「神棚事件」:学校配属将校たちは各校長の監督に服すことになっていたにも拘らず、校長権限を有名無実化した。
P87:「八紘一宇」が政府公式文書に登場するのは昭和15年8月1日第二次近衛内閣の「基本国策要綱」が初
P95:昭和23年・ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』、昭和30年・竹山道雄『昭和の精神史』
P97:・・・「創られた伝統」の刷り込みに、占領軍による「お墨付き」が与えられたのである。・・・洗脳工作を終了して占領軍が立ち去っても、革命に憧れる「進歩的文化人」によって、そのイメージが増幅され、ついには疑いようのない真実として戦後の日本人の頭脳を支配することになった。
P99:「侵略戦争の伝統」、「大東亜戦争の予言者」−佐藤信淵、著書『混同秘策』、『垂統秘録』は弟子の一部のみが閲読、筆写を許される「秘本」なので、生前において世論に影響無し。
P103:大国隆正、福羽美静など一部の弟子筋を除いて忘れ去られてえいた。記紀の「神代巻」を、青年期の隆正は「わが国の小説演義の鼻祖」程度にしか思っていなかった。
P110:・・・天皇の「人間宣言」にしても、「現御神」の否定に書き替えられ、天皇「神孫」論と天皇「現人神」論が区別され、そこに天皇「神孫」論は否定しないとの意図が隠されている。
P111:「創られた伝統」を増幅した村上重良(宗教史)、宮沢俊義憲法)、丸山真男(政治思想)
『猶太難民と八紘一宇
P124:「国家神道」の産みの親は「現人神」の産みの親の一人である加藤玄智で、提唱当時は当然に「新説」
P130:「幻想」の媒介者ーD・C・ホルトム
P138:国家神道「幻想」の拡大者ー藤谷俊雄
P152:原田敏明ー「WW1の後、無政府主義マルクス主義等が横行し、社会不安は頂点に達した。その時その思想問題に立ち向かったのは僧侶である。当時神道人は何もしなかった。今度の戦争では神道人が以前のように、他に遅れをとってはならない。」
P154:日露戦争当時の兵士たちの意識には「天皇靖国神社もまったくといってよいほどにない」−大江志乃夫『兵士たちの日露戦争
P160:穂積八束”絶対的に殺人を否定する宗教は、国の死刑制度や兵役と相容れないので臣民の義務に反する”−明治45年『皇族講話会における帝国憲法講義』
P163:有賀長雄は、天皇天皇の祖先に対する「敬礼」さえ怠らなければ、どんな宗教を信じようとも自由だとし、・・・・その「敬礼」には「神社参拝」は含まれていない。
P165:内村鑑三不敬事件当時の多くの日本人は、天皇に対する「敬礼」と「礼拝」を区別しようとする態度の中に、天皇に対する尊敬の欠落を読み取った。
P182:「神祇官興復運動」
P185:明治44年市制町村制が改正されると、府県社以下への経費支出も可能とする条文が加えられ、「全神社を国家の宗祀」とする名目が回復される。
「神社倫理化運動」
P194:”神社崇拝を非宗教の国民道徳と考えて、奨励はするが、強制はしない”−大正期の政府の基本方針
P212:明治初期の「宗教」の意味内容は「仏教の最高の境地(宗)とそこへ到達させるための言説(教)」ということで、「宗教=仏教」だった。RELIGIONの翻訳は初期段階では、「宗旨、神教、信教、神道」が当てられたが、「宗教」に固定されたのは明治14,5年。
『日本の朝鮮支配と宗教政策』、『日本帝国主義下台湾の宗教政策』
P227:「寺廟整理運動」
P236:「国家神道」あるところに浄土真宗あり!:現代の政教関係訴訟の原告には、必ずと言っていいほど真宗僧侶が名を連ねている。
「神社非宗教」論は、真宗側が政府に採用を迫ったもの。
「現人神信仰は、法主生仏信仰の焼き直しではないか」−(大谷派)菱木政晴
P242:神職の布教と葬儀の禁止が、昭和14年8月14日に解かれてから従軍した神職終戦までに「2人」のみ、明治37年2月7日に陸軍省が僧侶や教師の従軍を認めてから、戦地で将兵を鼓舞したのは仏教と教派神道、特に東・西本願寺の僧侶が多数だった。
P249:「国家神道」とはみんなが望んだ「共同幻想
P251:「しん緯説」も当時は文明国からの最新学説:学者ほど「文明、科学、最新」に弱く、その名を冠した「魔術」に引っ掛かり易い。
「上からの演繹」
P257:明治維新こそは欧米列強に対抗するために結ばれた「一揆
勝俣鎮夫『一揆
P267:・・・実証史学における客観性とは、確定できる事実と、当時の人々の「主観」と、歴史家自らの「主観」と、この三者の危ういバランスの上に、おぼろげながら浮かび上がってくる「像」を恐る恐る語ることなのである、・・・