昭和の精神史 (講談社学術文庫 (696))

昭和の精神史 (講談社学術文庫 (696))

昭和の精神史
P16:1930年代にファッショ化した国には華やかな中世を持ったものが多く。この中世原理が深く根ざし、近世国家としての出発が後れ、「持たざる国」となる。
P20:「天皇制」の代表者たちは、革新勢力によるファッショ化に反対していたからこそ殺された。
P22:ゲルハルト・リッターによると7月20日クーデターに失敗したカルル・ゲルデラーは嫌疑者の範囲を無限に拡大し、裁判を複雑化させ長期化することで、その人々を救おうと願った。
P26:インテリほど論理に頼って判断するから、インテリほど魔術にかかっている。
P34:・・・旧日本は言論が不自由だったと今は信ぜられているが、やがて拘束がはじまるまでの一頃はそれどころではなく、極めて破壊的だった。来る日も来る日も、辛辣に、手軽に、巧妙に、無責任に、揶揄し罵倒する言葉を聴いて、全ての人々の頭にそれが染み入った。しかもなを、乱闘、汚職、醜悪な暴露は呆れるほど続いた。分裂と混乱は見込みがないと思われた。軍人の政党に対する不信反感は非常なもので、これは最後まで消えなかった。
P35:青年将校は軍人の子弟が多く、そうでない者も概ね中産階級の出身で自身は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのはインテリの動機と同じだった。インテリは天皇と祖国を否定したが、将校たちは肯定した。
P38:革新派軍人が考えていた「国体」は、「天皇制」とはあべこべのもののだった。:「旧来の元老・重臣・政党・財閥・官僚・軍閥=機関説的天皇制」と「一君万民の軍国的社会主義統帥権天皇制」、前者は汚職したり軍縮をした。後者は社会的不正を攻撃したり外地侵略をした。(これは極限概念としていうので、現実には両者の間にさまざまなきょう雑物と混淆があった。)
P39:・・・裕仁天皇は常に合法的に合慣例的に、機関説態度に終始した。その局にあたる責任者の言を聞いて自分のイニシアティヴをとらないという、原則を貫かれた。じつに、統帥権に関することがらについてすら機関説的態度に終始して、忠言暗示をあたえることはあっても、軍に関することは軍の責任者に聞いた(しかるに、この軍の責任者は「軍の総意」−すなわち中堅将校によって制せられていた。つまり、統帥権天皇とは、結局の事実としては中堅将校のことだった)。
P54:昭和6年の三月十月の両事件、満洲事変、5・15事件は同じ動きの現れで、相互に本質的な差は無い。
P55:・・・中堅将校は知的で野心的だったが、青年将校は感情的で神がかりだった。・・・かくして、行動的な皇道派青年将校)は一掃され、残った中堅将校の反「天皇制」が覇権を握る。
P62:昭和13年の浅原事件、
P64:満洲国の求人広告”失意の人も可”の失意の人とは「転向者」という意味。
P79:重大な責任が問われるべき3人:1)三月事件や十月事件を揉み消した当局者。2)満州事変勃発当時の南陸相。3)日華事変勃発時の杉山陸相。2,3)の2名は思考に著しく精密度を欠いていて、国務と軍務の一致というようなことは念頭にない。・・・共に政党に対して激しい不信感を抱いていたことは、演説や挿話によって分かる。
P87:・・・破壊を始めた軍人は、年が経ち現実の建設ことに戦争遂行に直面するに従って、事変処理の為には当初の社会主義をやめた。財閥の協力を必要とすることが分かってきたし、財閥もこれに便乗した。あのころは、便乗は誰でもした。
P88:「天皇制」は軍縮をした。浜口内閣の財部海相や宇垣陸相は、その代表者だった。しかるに、三月十月両事件や5・15事件の将校たちは、この軍縮を攻撃して、これをした者を「軍閥」と呼んだ。・・・中堅将校も青年将校も共に「天皇制」を倒して統帥権天皇を立てようとしたのだが、中堅将校は統帥権天皇を無記の抽象物として運用して自らが「実質的な統帥権天皇」となり、青年将校はこれに反発した。
P92:多くの人々は戦争の悪と軍人の悪とを混同している。
P94:日本では軍隊が無形無名の下克上のうちに政治化したのだった。・・・統帥権の問題が日本の命取りになったのは、それが原因ではなくてむしろ結果だった。
P95:荒木将軍”日本は軍事的には細ホコ千足の国、産業的には豊葦原の瑞穂の国、外交的には浦安の国”:・・・その昂奮をかねてから覚え知っている形によって発散したのである。・・・ソ連でも戦争中は共産主義は引っ込んで歴史が表に出た。
P96:・・・軍事革命家たちは、彼等が想像する性格の天皇に対しては極めて忠誠だったが、現実の天皇の意思表示はほとんど無視した。幕末にも、政治公卿や志士たちは天皇の意思を無視した。
P100:・・・開戦の困難を痛感している東条に組閣を命ずることが、戦争を防ぐ唯一の法である。(木戸内大臣
P103:もし、宇垣が近衛の後継者になり対米交渉が妥結したら、革命が起こって、続いて戦争になる。
・・・昭和始めごろには、旧右翼は弱い存在だった。右翼といえば、無頼漢の代名詞みたいなものだった。力を得たのは軍がファッショ化した後からで、トラの威を借りた。
P105:・・・元来日本人はファッショが嫌い:エチオピア戦争のイタリアは大変評判が悪く、初期のナチスを礼賛する人もいなかった。インテリの間では、民族ということなど口にすれば、それは卑しむべき反動だった。
P106:昭和12、3年ごろから以降の雑誌類を読み返すと、思想家とか評論家とかはそのときどきどうにでも理屈をつける愚かしいものだという感を禁じえない。
P108:超国家主義者の土肥原将軍も、国を長期消耗戦から敗北に導こうとした尾崎秀実も、同じことを唱えていた。
P109:・・・(知識人たる)彼等はただあの当時に国を風靡していた「社会的知覚」に従っていたのである。・・・社会人としては社会的知覚に従って「王様は着物を着ている」と言う。個人の知覚とは離れた社会的集合知覚が厳然とした事実としてあって、社会人としての目には着物を着た王様が見えているいるのである。「やあ、あの王様は裸でいる!」と叫んだ少年は、まだこの社会的知覚の能力を持っていなかったのである。
P112:・・・日本には戦争遂行の主体すらなかった。
P115:日本にはファシストはいた。しかし国はファッショではなかった。
P121:ローリング判事
P133:野村大使への訓令は傍受されて、驚くべき誤訳(悪意ある捏造)をされた。
P237:・・・昭和12、3年ごろの内閣情報部で行われた講演で、講師の参謀本部中佐の弁「今の日本軍隊ほど”放火、強姦、掠奪”をやるものはありません。日清日露にはこのようなことはなかった。」