ひらがな日本美術史 5

ひらがな日本美術史 5

ひらがな日本美術史5 橋本治
円山応挙
P15:「円山四条派」、「近代日本画のつまらなさの源流は円山応挙にある」:「俺(曾我蕭白)の絵は芸術だが、応挙のは京都のプチブルの飾りだ」
P16:《雪松図屏風》の松は下手である。
P17:円山応挙は「眼鏡絵」の画家からスタート。
P20:「子供」という概念は、18世紀の欧州人が発見するもので、「大人」と区別される「子供」という概念を立てて、そこから「教育」とか「学校」という考えも生まれる。
P24:「没骨(もつこつ)」を応挙なりに消化して生まれたのが「付立(つけたて)」
P25:今のところ円山応挙は「近代日本画のスタートラインに既に存在している、”近代日本画のゴール”」なのである。
曾我蕭白
P32:1970年代『奇想の系譜』
P48:日本人にとって水墨画とは「お勉強」の絵であった。それが、日本人における水墨画のそもそものあり方だった。・・・昔の大人に”学ぶべきこと”は、「人間のありよう」であり、「人間のあり方」である。
P63:「1765年の曲がり角」−
伊藤若沖)《蔬菜図押絵貼屏風》《群鶏図押絵貼屏風》
(浦上玉堂)《奇峯連聳図 ( きほうれんしょうず )》
P81:浦上玉堂自身は「画家」ではなく「琴士として有名な文人」、《奇峯連聳図》の価値は「有名人・浦上玉堂の直筆」ということであって、それは、今の有名人が描く「へたくそな色紙の絵」と似たものだったかもしれない。
P88:「チンコの山」→《寒林間処図》《山高水長図》《山癇読易図》《風高雁斜図》
喜多川歌麿
P95:歌麿ベスト1(心理)《歌撰戀之部 物思恋》、(肉体)《北国五色墨 川岸》
P97:(真の)歌麿ベスト1《當時全盛美人揃 瀧川》−心理・肉体が共に存在し、「あまり内容が無い」というレベルで調和を保つ。
P109:中国を本家とする東アジア文化圏は、肉体を問題にしなかった。問題にされたのは、性器という「肉体の一部」だけだった。その例外となるのが、寛政5、6、7年の歌麿なのである。
P114:「美人画」とは一種の妄想で、・・・画家の力が七分で、見る側の力が三分の共同作業が成り立つと、誰もが納得するような「美人画」になる。
(盆栽)
P118:ある意味盆栽は木に対する纏足である。・・・「人為を加えることによって自然を実現させる」という、不思議なパラドックスがある。
「根張り」と「立ち上がり」、芽を摘まれた盆栽のエネルギーは、「先」という行き場を失って、根元に戻る。
P123:市ヶ谷の「高木盆栽美術館」真柏の《北斎
P124:人間の願望を実現させる造形物ーこれが「美術品」なら、盆栽は立派な「美術に属するもの」なのである。
P129:江戸時代には「最高級ランクの駕籠」=「乗物」
P131:「粋」であると思われていた「江戸のデザイン」は、家紋を誇示するという「実用第一主義」の”端っこ”にあった。
P136:大胆に切り捨てるのを、本阿弥光悦的な「日本」とすれば、江戸のデザイナー達の多くの仕事には、過剰な「中国」がある。
P137:古く「金」とは仏の体の色だった。・・・仏像→茶碗
P142:印籠とは裃を着た武士が腰に提げる「携帯用の小型重箱」の様だが、実際にはただの「飾り」だった。
P149:正式(フォーマル)というのは、「実用に由来する飾り=遊び」
P152:「実用の枷を逆手に取る」
P153:蒔絵の携帯電話に、象牙の根付のストラップ−これが「脱産業社会」のあり方。
P159:寛政六年、「江戸三座」の興行権は手放され「控櫓」と呼ばれる権利を持つ人物「都伝内、桐長桐、河原崎権之助」に移る。
P160:「歌麿の《當時全盛似顔揃》が人気を集めていたころに、蔦谷が写楽をぶつけて来た」、これに怒った歌麿は《似顔》の二字を《美人》に置き換えた。
『黒雲母摺(くろきらずり)』
『大江戸歌舞伎はこんなもの』
P178:「蔦谷重三郎が写楽に大首絵を描かせた理由」−「今細かい絵を描くと掘師が大変になる。細かい絵が描きたいなら、次の興行のときにやらせてやる。今は手抜きで描け。」−「大首絵→全身像」
P185:写楽の影響、あるいは衝撃があって、七世片岡仁左衛門という役者がやって来て、《七世片岡仁左衛門高師直》という傑作がある。
勝川春英《七世片岡仁左衛門高師直》では敢えて烏帽子を欠く大胆な演出。
P190:蔦谷はもと吉原の遊女屋、重三郎はその家の養子になり、吉原細見の出版を始める。
P193:老舗の版元「泉市」から初世歌川豊国の《役者舞台之姿絵》の発表をに焦った蔦谷重三郎は「向こうが一人立ちの大錦で来るなら、同じ大錦を、黒雲母をバックにした大首絵で攻めてやる」、こうして写楽の「第一期」の大首絵群が誕生した。
P197:写楽は《三世沢村宗十郎名護屋山三》で「名護屋山三に扮した沢村宗十郎」を描いた。豊国は《役者舞台之姿 きのくにや》で「沢村宗十郎が扮した名護屋山三」を描いた。写楽は袖に「丸にいの字=沢村宗十郎の家紋)」、豊国は袖に「三本傘(=名護屋山三の家紋)」(ただし、印籠には小さく「い」)
写楽は「絵は図々しいが、性格はいたって控えめな画家」である。反対に豊国は「絵は穏やかだが、性格はいたって図々しい若者」
P200:役者の家紋を隠す画家は豊国が最初。「見れば分かる」を歴然とさせたのは、個性表現の写楽ではなく、客観表現の豊国だったのである。
P201:写楽はプロのくせに、人を納得させるような仕事が出来ない。プロの画家なら、「明確な遍歴」はあったかもしれない。シロートだから「世界に冠たる大芸術」になった。