日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

日本神判史 盟神探湯・湯起請・鉄火起請 清水克行
(はじめに−残酷すぎる伝説−)
「相論」の解決に「鉄火起請」−敗者は町中を引廻しされ磔−綿向神社『山論鉄火裁許之訳書』
新暦10月18日「鉄火祭」
『新編会津風土記』−ショック死した敗者の遺体はバラバラにされて両村の境界線上に埋まる。
室町時代の100年間に「湯起請」として大流行、その後、戦国から江戸初期にかけてより過激な鉄火裁判が小流行。
第一章 参篭起請−鎌倉時代の神判−
・『日本書紀』の「盟神探湯」は応神9年の竹内宿禰対甘美内宿禰
・允恭4年の氏姓再確認事業−このエピソードの「これを区訶陀智といふ」で読みがわかる。甘樫丘に「探湯瓮(くかへ)」を据え・・・−甘樫坐神社では近年になって盟神探湯の神事が復元され毎年4月の第一日曜日に行われている(当時は熱した泥水)。
・継体24年、半島での紛争解決に「誓湯」を多用した「近江毛野臣」に継体帝は召還命令を出している。
P9:80年代に現れる多くの”社会史”研究は、中世人の呪術観念や信仰心を実態以上に強調してきたきらいがある。
P10:(720年)『日本書紀』の記述から応永11年(1404)の湯起請史料の出現まで熱湯裁判は一切確認されない。・・・盟神探湯と湯起請の関係については、人類学では連続説を唱える研究者が多いようだが、多くの中世史研究者は感覚的に断絶説を支持している。・・・『日本霊異記』、『今昔物語集』などの庶民説話に熱湯裁判は出てこない。・・・『水鏡』には称徳帝の熱湯起請類似の事例があるが、虚構である。熱湯の替わりに「熱銅液」は荒唐無稽に過ぎる。
P15:「起請文」に使われる最も代表的な護符が、熊野大社の牛玉宝印。
「湯起請を書く」
P17:鎌倉期には「参籠起請」があるから「盟神探湯」の出番は無い。
参籠には鎌倉では鶴岡八幡宮、京都では北野天満宮と決められ、参篭中に自身や家族に起こる異変は「失」と呼んだ。
「高津鳥の災い」
P23:(追加法73条)参籠起請の「失=九ヶ条」は「死穢」「血穢」に由来する。
P24:「神判祭文」
P26:「失」の用件は地域により異なる。
P29:外国史の事例や人類学の報告によると、神判が実施される機会が最も多いのが、男女間のトラブル。
P30:「月経裁判」−1249年『鎌倉遺文』7037号
P33:1394年7月、東寺での救運の「不清浄」−「神水を呑む」
P38:参籠起請の限界:参籠起請では被疑者無罪が圧倒的に多い「優しい」システム。
第二章 湯起請−室町時代の神判−
1.湯起請の統計学
P45:表1−湯起請の実施率、表2−湯起請の火傷率
紛争解決型の湯起請の挑戦者18名の火傷は五分と五分
P48:湯起請文は1430年代にピークに、室町時代に流行した。その期間は「籤引き将軍」足利義教の執政期と一致する。
P55:紛争当事者の一方から湯起請の採用が提案されている。
P58:湯起請を「上から」生まれたとものと主張する論者の脳裏には、「そんな過酷な裁判方法を民衆が自ら考案する筈が無い」という先入観があるのではないだろうか。また、湯起請を為政者が民衆への威嚇を企図して採用したものであるとする見解にも、同様の思い込みが背景にあるような気がするしかし、現実にはしばしば、民衆は自主的に湯起請の実施を求めている。
第三章 ムラ社会のなかの湯起請
1.落書起請と湯起請
P62:千々和至、榎原雅治の両氏によれば、(共同体主導型の)湯起請は事件の真相を究明したり、真犯人を捕縛したりすることに目的があったのではなく、共同体社会の狭い人間関係のなかで互いが疑心暗鬼になり社会秩序が崩壊してしまうことを食い止めるため、誰もが納得する形で白黒をつけることで、共同体内の不安を解消することを目的としていたのではないか、という。
P63:1436年11月、山城国伏見荘にある即成院不動堂の本尊盗難事件
「無名判=落書起請」→古代ギリシャの「陶片追放」も類似
P66:新潟のある村では明治時代まで「入札」や「地獄札」と呼ばれる落書起請類似の犯人探し投票が実施されていたことが確認されている。
P67:湯起請の前には落書起請などを経ることで、前もって共同体の集団意思に基づく被疑者の選抜がなされていたのである。
2.疑惑の神判
P76:中世の共同体には合意を乱す存在を許しておくような寛容さは無い。・・・彼らは何よりも共同体や社会の秩序回復を第一に考えていたのであって、むしろ、そのための便宜的な儀礼として湯起請や神判を利用していただけだったのかもしれない。
3.ムラの「平和」
P80:ルイス・フロイス「その地には住民が少なく、そこに泥棒がいたのでは安んじて生活できないからであった」
第四章 当事者にとっての湯起請
P86:細貝眞理−相手を畏怖させ、裁許の場に不参加させることで、訴訟に勝利することを意図した。・・・「神意を問う」というような敬虔な場ではなく、いわば「度胸試し、チキンレース」の様相を呈していたのかもしれない。
P88:中世社会は「噂」が十分な刑事事件の証拠と認められる。
P90:伏見宮貞成「神慮もつとも不審」
P94:『東寺 一口供僧方評定引付』1473年2月3日鎮守八幡宮宝殿盗難事件の容疑者五郎次郎−嫌疑濃厚な容疑者の側から湯起請の提案がなされている。
「寄船の法」
P100:証人に対する訴訟戦略として湯起請を提案するのは一般化していた。
P101:中世前期の荘園や村落の境界争いの裁判では、しばしば土地の「古老」が召還され、彼らの記憶が文書を凌ぐ重要な「証拠」として公的な法廷で認められてきた。
P102:湯起請を希望したのは「音声主義から文書主義への価値基準の転換」の前に、一転して弱者とされてしまった者たちだったのである。
P105:徳政一揆はモノが戻るのが常識だった時代の産物ではなく、むしろモノが戻るのが次第に難しくなっていく時代にあって、旧来の慣行を維持しようとする人々によって生み出された反動的な現象だったのである。この点湯起請と徳政一揆は非常によく似た現象だった。
P107:湯起請の大流行が100年で終息した理由の一端−社会に狭義の証拠主義が定着し始めたときに、その対抗策として価値を見出されるも、やがて湯起請をもってしても新たな流れに抗し得ないことが明らかになったとき、その役割を終え、早々に表舞台から撤収していったのである。
第五章 恐怖政治のなかの湯起請
「中分の儀」−真相糾明を諦め、被害者・加害者・裁定者の三者が同等の負担をする「痛み分け」→「三方一両損
P126:湯起請は、衆議や一揆に抗して為政者が自らの政治判断の恣意性・専制性を隠蔽するための手段として意味を持っていたのである。
P135:「論ずる物は中から取れ」
P140:中世社会では公家・武家・社家や村や町などが独自の裁判権を持っていた。そのため訴訟当事者は、その中から自身にとって最も都合のいい裁判権者の法廷に駆け込めばよかったのである。
P141:為政者主導の湯起請は、為政者の権威がいまだ不安定で、「衆議」と「専制」の相克が見られた室町期に特有の現象であったといえる。
第六章 そこに神はいるのか?
P144:湯起請は(1)共同体にとっては異端排除あるいは治安維持の再確認の作業をあたかも恣意的・専制的ではないかのように見せるための役割を持っており、(2)一部の当事者にとっては自身の主張が恣意的なものではないかのように、反証拠主義的な立場から主張するための役割を持っており、(3)専制政治を志向する為政者にとっては単純明快な秩序回復策をあたかも恣意的・専制的でないかのように見せるための役割をもっていた、と位置づけることができる。
P148:「・・・両方理非相半ばの時ども沙汰せられるべき事に候」
P150:記録に残る最古の湯起請記事で、当主の山科教言は湯起請を忌避している。
P152:安土城跡の石段・石垣には地蔵・石仏が石材として転用されているのが確認できる。石材の不足とか消極的な理由ではなく、信長に謁見を望む者は必然的に石仏を踏むか跨ぐかするように故意に設置してあるとしか思えないものすらある。・・・これら信仰対象物への冷淡な対応は、信長と同時代の為政者には認めることが出来る一般的な風潮だった。
(神仏の価値暴落)
P155:「起請返し」、「起請許し」
P158:・・・まさに信心と不信心の微妙なバランスのなかで生まれた習俗であった。
第七章 鉄火起請−戦国から江戸初期の神判−
P162:横浜市川崎市の市境→「鉄火松跡」
P166:「悪魔の絵を描いた一枚の紙を手のひらに置いて、その焼石か鉄火を握るのである。」(『日本大文典』)、「熊野の牛玉を三つ折、両手に牛玉のはしを大ゆび(親指)にくるみ持ちなし、鉄火をかねの鋏にてはさみ、両手の上に渡し候」(『福島太夫殿御事』)
P172:・・・室町時代に大流行した湯起請について、その史実が現在まで語り伝えられている事例は無い。・・・ごく普通の地域社会に生きる人々にとって、自分たちの歴史の始まりは、決して<室町>ではなく、せいぜい<江戸>からだったのである。・・・江戸時代の百姓一揆で犠牲になった人々を「義民」として地域の人々が顕彰する傾向は、当の江戸時代よりも、むしろ明治時代以降に顕著に認められる。・・・現在、鉄火起請ゆかりの地に残されている慰霊碑や記念碑も、その殆どが近代以降に子孫や地域社会によって建立されたものである。・・・「創業神話」が地域の人々に再確認されたことを物語る。
P188:『山論鉄火裁許之訳書』の角兵衛は「村の扶養者」→ 一般的に戦国時代の村落には、いざというときのスケープ・ゴートにする乞食や浪人を扶養しておく習俗があった。
P196:元来、紛争解決型の参籠起請や湯起請では負けた側は係争地や係争物件を失うだけで、それ以上に彼らに処罰が加えられることは無かった。・・・近世初期の村落間相論では、鉄火起請に限らず敗訴した側の代表者が処刑されることが一般的だったことが明らかになっている。・・・中世とは異なり、近世社会は「宗教」が「政治」に従属した社会だった。
P201:灼熱の鉄片を手で握るという極限状態を作り出すことで「神慮」は眼前に現れると信じた人々によって創出された過激な鉄火起請。しかし、「神慮」が確認できないことが人々に周知されるや、鉄火起請は湯起請以上に早く、あっという間に史上から姿を消すことになった。以後、神判は歴史の表舞台からは締め出され、公的な裁判に採用されることは絶えてなくなる。
おわりに−世界文明のなかの中世日本−
(インドの神判)
P204:『マヌ法典』『ヴィシュヌ法典』−沸湯神判、火神判、毒神判、神水神判、水神判、秤神判、嚼米神判
2006年夏、ラジャスタン州で大規模神判→学校の米・麦が盗まれたが警察の捜査が無かったので、二つの村の男性150人が「油で沸騰する大釜から銅の指輪をつまみ出す」ことになり、釜に手を入れなかった50人が犯人となった。無罪になったものは皆、火傷を負う。
犯人にされた45歳「(神判を)拒否したなら、村八分にされたでしょう。その恐怖から、私たちは皆賛同しました。これが行われたのは初めてではありません」
琉球アイヌの神判)
毒蛇神判『定西法師琉球物語』−記事の「弁財天」は「ウタキ」か?
(中国の神判)
中国では早い時期からの法制度の整備で、神判は公的な裁判制度から駆逐されている。秦・漢以前の西周春秋時代から伝説としても神判の記録は確認されない。
(欧州の神判)
熱湯審は6から7世紀のゲルマンの部族法典に確認することが出来る。
P211:神判を「神を試す行為」として、1215年第4次ラテラノ公会議で聖職者の神判立会いが禁止される。
(日本中世の神判)
諸外国の神判史と比較して得意なのは、日本の場合、一度は停滞を見せた神判が、中世後期から近世初期にに再び大流行を見せる点である。
P213:「衆議」と「専制」や「文書主義」と「音声主義」の対立、・・・原始・古代への単純な回帰や宗教心の発現として捉えるべきではなく、新たな秩序が形成されるまでの模索期間に、出現した過渡的現象だった。
あとがき−鉄火巻きと鉄火起請−
P220:「鉄火巻き」の初見は1925年『現代用語辞典』
P223:日本における神判の歴史とは、神判を信じなくなってゆく歴史でもあった。
中世においては裁判要素と賭博要素を兼ね備えていたのが神判。