害虫の誕生―虫からみた日本史 (ちくま新書)

害虫の誕生―虫からみた日本史 (ちくま新書)

害虫の誕生−虫からみた日本史 瀬戸口明久
P7:「御器かぶり」
P8:食物が豊富で冬でも暖かな家でなければ、ゴキブリは定着することができない。かつては豊かさの象徴で、群馬県高崎地方ではチャバネゴキブリを「コガネムシ」と呼んだ。「コガネムシは金持ちだ」と野口雨情の童謡で歌われたのはチャバネゴキブリのこと。ゴキブリが多いと金が貯まるという話は愛知や岡山にも残存する。秋田では駆除自体が厳しく戒められたと言う。
P11:『日本農書全集』には「害虫」という用語が登場するのは一箇所のみ。
第一章 近世日本における「虫」
P18:移動式の焼畑農耕では、害虫の大発生が回避されてきた。「害虫」に悩むことになるのは、定住型農耕が確立してからのこと。
続日本紀』701年に「蝗」とあるのを「イナゴ」と特定はできない。
P21:1826年、大蔵永常『除蝗録』−「注油駆除法」
P24:「虫送り」行事
P25:福井ではクロカネムシを「善徳虫」と呼ぶ。
「駆虫札」1950年代までは残っていた。
「虫塚」
P27:「本草学」、『本草網目』
P28:「蟲」には「卵生、化生、湿生」
P33:19世紀にはいると江戸の大名や幕臣が中心の「赭鞭会」、尾張の武士が組織した「嘗百社」と、博物学趣味のサークルが作られる。
P34:1787年、森島中良『紅毛雑話』
第二章 明治日本と<害虫>
P43:池上俊一動物裁判
P48:「アメリカ応用昆虫学会」−「化学的防除、生物的防除」−パリス・グリーン、ベダリアテント
P53:「天敵探索官」
P58:新宿の「駆虫草木園」
P65:「害虫駆除予防法」
P66:「短冊形苗代」「正条植」、「サーベル農政」−害虫駆除を拒む逮捕者が年間6000人出た。
P67:「筑後稲株騒動」、「老農」
P74:明治初期の「公益」とは、多くの場合「国家にとっての利益」を指していた。
P76:名和靖『薔薇之一株昆虫世界』
P88:「害虫駆除唱歌
第三章 病気−植民地統治と近代都市
P106:マラリアは「おこり」と古代から呼ばれる。フィラリアも青森以南の日本全域で見られた。
P114:タップノミー=カダヤシ
P123:1922年伝染病予防法の改正でハエ、蚊、蚤、虱の駆除が求められる。
「衛生博覧会」「蠅取りデー」
P132:「日本のマラリアは厚生省がなくしたのではなくて、農林省がなくしたようなもの」佐々学『日本の風土病』
第四章 戦争−「敵」を科学で撃ち倒す
P139:1918年夏の米騒動の原因の一つにはWW1勃発による外国産米輸入の不安定がある。大豆生田稔『お米と食の近代史』
P147:1943年「青色蛍光誘蛾灯」が実用化。
P148:1949年3月GHQ天然資源局は「誘蛾灯」の奨励を中止、替わりにDDT使用を奨励。
P151:昭和初期に日本の除虫菊生産は世界に占める割合は90%
世界の化学工業を索引していたドイツとWW1で戦うことになった連合国側の国々は、国内の化学工業を早急に整備する必要に迫られたのである。
P154:クロルピクリン−兵士のガスマスクを外させる毒ガス
P162:「サイローム」→寒冷地では青酸ガスは拡散することなく、有効な兵器となることが判る。→「ちゃ一号」日本はWW2中、毒ガス兵器を実戦使用した唯一の国である。主な使用は中国大陸だが、青酸ガスの手投げ弾、通称「ちび」はマレー半島で使われる。(吉見義明『毒ガス戦と日本軍』)
帝人の青酸殺虫剤「テロジン」
P167:「エージェント・オレンジ」は日本の水田に撒かれるものとして開発された。
P171:「エアゾール爆弾」−太平洋の米軍に配備された防マラリアの殺虫剤散布弾。
P177:「異類合戦物」「虫合戦物」
P186:1997年4月、キューバ政府はミナミキイロアザミウマがアメリカによって散布された生物兵器であると告発する。
P188:1940年10月27日、日本軍は寧波の上空から731部隊開発の生物兵器(伝染性ペストを媒介する蚤)を投下した。・・・アメリカの昆虫学者たちがマラリア媒介蚊を根絶するためにDDTの研究に従事していた頃、日本の昆虫学者たちは害虫を増やす研究に励んでいたのである。<害虫>を根絶して人間を救うか。<害虫>を増殖して人間を殺すか。昆虫学者たちの目標は、太平洋の両岸で全く反対であった。けれども<害虫>をコントロールし、人間との関係をつくりかえようとした点では、両者の目指したところは同じである。戦争とは、「自然と人間の関係」を大きく組みかえる営みに他ならなかった。