私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった

私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった

私たちが子供だったころ、世界は戦争だった サラ・ウォリス&スベェトラーナ・パーマー
P58:(フランス)水道が引けるなんて、かなりの金持ちに違いありません。
P82:占領下の欧州では、ユダヤポーランド人には184カロリー、フランス人には一日1300カロリーが与えられた。
P86:スウェーデン
P92:ドイツ兵たちとボールで遊んだ。正直言って、奴らはとても親切だったし、フランス人と遊ぶよりずっと楽しい。なにしろフランス人は、遊び始めて五分経つかたたないかでもう言い寄ってくる。・・・ドイツ兵たちとだと、遊びそのものが楽しめて、むこうもそれ以上のことを考えない。
P106:(ポーランド・ウッチのユダヤ人ゲットーにて)パンには栗の粉を8%混ぜている。
P121:「指向性爆弾」
P126:1941年11月も半ばになると、レニングラードで猫や犬や鳥を見かけなくなる。
配給される生焼けのパンの中身の半分が籾殻とおが屑だった。
P131:(ヘルベルトは凍傷に罹り)ロシア人女性に三日間脚を擦り続けて貰い、助けられた。
P152:ロシア軍の戦いぶりは農民一揆のようです。兵士10人に対して銃は一丁しかないので、棍棒やその他あらゆる器具を武器代わりにしています。
P169:「ガス車両」
P170:1942年1月7日、”東部占領地区におけるユダヤ人問題”に関する報道を禁止する通達が新聞各社に出される。
P197:ヘウムノ、ソビボル、トレブリンカ、ベウジェツの根絶収容所で150万人以上が最後を遂げた。
P208:(ミシュリーヌ・サンジュ)食料調達は難しい。農家の人たちは、ドイツ人にあげる方を好むのだ。
P212:「エーデルワイス海賊団」
P232:母親や未亡人には、充分な手当てが支給されたので、女性がドイツの工場で働かない。替わりに、占領地域から連行された強制労働者により、1943年秋には工場労働者の3人に1人が外国人になっていた。
P248:強制労働者には「木靴」が支給された。歩くたびに大きな音が出るので「足枷」と呼ばれる。
P297:1943年10月10日・・・いま、新宿界隈で出陣学徒の行状目に余るものがあるという。嘆かわしいことだ。