捏造された聖書

捏造された聖書

捏造された聖書 バート・D・アーマン
P51:新約聖書27篇を最初に決定したのはアタナシウスで西暦367年の年次司教教書で27篇を規定する。
P53:ウィリアム・ハリスによれば、紀元前5世紀のアテネにおける識字率は全人口の10〜15%程度。
P54:「識字能力」−2世紀エジプトの書記は手弁当の名誉職だったが、西暦184年にプトレマイオス・ホルモウ村の財政と農政を担当していたカラニス村の書記ペタニスは他の書記イスキュリオンの書記としての能力の欠如(=文盲)について村民から訴えがあったとき、ペタニスはイスキュリオンが公式文書に「署名」していることをもって反論した。ペタニスにとって「識字能力」とは「自分の名前が書ける」ことを意味していた。
ペタニス自身も前の紙の字形を「見ながら写しているだけ」で、自分が書いている単純な単語の意味すら理解していない。
P55:ガラリヤ出身の漁師ペテロとヨハネは、『使徒言行録−4:13』で「文盲」とある。
P58:古代世界での「私は本を読んだ」という表現の真の意味は、それを「読んで他人に聞かせた」である。「この手紙を全ての兄弟たちに読んで聞かせるように、私は主によって強く命じます(テサロニケ1−5:27)」
P66:『ヘルマスの牧者』5:4、「連続書法」
P69:初期キリスト教テキストの複製は、少なくとも最初の2〜3世紀の間は、プロの書記ではなく、信徒の中で識字能力(ピンキリ)とやる気のある素人が従事していた。
−写本同士の相違は甚だしい・・・彼ら(写字生)は自分で筆写したものを見返すということをしないし、その見返しの作業で、好き勝手に追加や削除を行なうのである。(オリゲネス)
−信者の中には、酒でも飲んでいるかのように、言うことが支離滅裂となり、福音書の原文を三度、四度、あるいはそれ以上にわたって改変し、批判の矢面に立たされた難問を否定できるようにしている者もいる。(『ケルソス反駁』2:27)
P73:『ヨハネ黙示録』22:18-19は、読者に対する警告だと解釈されているが、そうではない。この本を「書写する者」に対する、よくある類の警告なのだ。つまり、単に単語を削除したり付け加えたりするなと言っている。似たような呪いの言葉は、初期キリスト教文書の至る所に散らばっている。
P76:「ヴァティカン写本」−『ヘブライ人への手紙』の冒頭余白註、先人(写字生)に対して毒づく内容。「阿呆かお前は!元のままにしておけ、勝手に変えるな!」
P79:『ガラテヤ人への手紙』6:11−「このとおり、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなたがに書いています」は、口実筆記した書簡の文責が自分にあることを示している追伸。
P85:『ヨハネ福音書』7:53-8:12「姦通の女」は口頭伝承の一つでよく知れ渡っていたものが、ある時、写本の余白に書き込まれた。これを見た書記か誰かが、その欄外の脚注を本文の一部だと思い込んで、『ヨハネ』7:52の直後に挿入した。・・・これが『ヨハネ』21:25や『ルカ』21:38の後に挿入されたのもある。
P92:『マルコ』の中では、誰かがイエスに関して何かを理解すると、イエスはその人に沈黙を命ずるーだがしばしばその人たちはその命令を無視し、報せを広めてしまう。何と皮肉なことに、(16:4-8)墓の女たちは沈黙するな、語れ、と命じられたのに、やはりその命令を無視する。−そして沈黙を守る!
P102:印刷初期の時代になっても、欧州の学者は、「ウルガタ」こそが唯一の聖書だと見なしてきた。ギリシア語聖書はギリシア正教会のもので、神学とも研究とも無関係だと見なされていた。
ヒメネス・デ・シスネロスの『コンプルテゥム版多国語対照聖書』
P106:『欽定訳聖書』についてエラスムス自身が「編集したというよりも、急いででっち上げたものだ」と述べている。
P109:『ヨハネの手紙1』5:7-8「ヨハネ断章」の写本は16世紀の特注品。
P120:「聖なる名前(ノミナ・サクラ)」、同一終端による視点跳躍
P125:『マタイ』24:36、『マタイ』17:12-13
P134:リシャール・シモンの神学的意図
P137:1707年にミル版が出ると、プロテスタントの聖書学者たちは現存する写本の実態を認識し、自らの信仰理解の再考と防衛に迫られた。
P142:ヨハン・アルブレヒトベンゲル
P145:あらゆる場面で、より「理解困難」な文の方が、平易な文よりも有望である。
P146:ヨハン・J・ヴェットシュタイン
P147:『テモテへの手紙1』3:16−(『アレキサンドリア写本』の古い証言によれば)肉において現れ、精霊によって義とされたところのキリスト−(ヴェットシュタインは)新約聖書が実際にイエスを神と呼んでいる箇所は殆ど無いという事実を受け入れるに至った。・・・キリストの神性に関する言及は消滅してしまったのだ。→『ヨハネの手紙1』5:7-8や『使徒言行録』20:28では、イエスは主と呼ばれてはいるが、明示的に神と同一視されているわけではないのだ。
P151:カール・ラマハン
P153:ロベゴット・F・C・ティッシェンドルフ →『エラスムス再利用写本』、『シナイ写本』
P157:B・F・ウェストコット&F・J・A・ホート
P166:外的証拠−最も重要な外的基準は、・・・内的証拠によって正しさが認められている文の殆どを含んでいるような写本。
P169:内在的蓋然性と転写的蓋然性
P170:一見すると「誤り」を含んでいるとか、辻褄が合わないとか、神学的におかしいと思われるような文は、「平易な」文よりも書記による改竄を受け易い傾向がある。→”異文の中で最もオリジナルに近いのは、他の異文の存在を最もうまく説明するものである。”
P171:『マルコ』1:41−憐れみ/怒って→『マタイ』も『ルカ』も示し合わせたように、問題のこの単語を削除している。『マルコ』の中でイエスが怒った箇所は『マタイ』『ルカ』では改変されている。
P178:『マルコ』でイエスが怒りを爆発させるのは、誰かがイエスの意志、能力、権威を疑ったときならば、「御心ならば、私を清くすることがおできになります」は当然怒るところである。
P179:『ルカ』22:43-44「血の汗」は後代書記の追加。
P191:『ヘブライ人への手紙』2:9−神から離れて−は『ヘブライ人への手紙』の言語的傾向、様式、そして神学に一致している。
P196:二世紀と三世紀、グノーシス派の中には12、別に30、365と神の数を各々宗派は主張していた。
P199:「養子論」−エビオン派
P202:『ルカ福音』2:33−父と母は、幼子について/ヨセフと母は、幼子について 2:48−両親は/ヨセフと母 お父さんも私も心配して/私たちは心配して
P208:「仮現論」−マルキオン派
P218:「分割論」−グノーシス
P230:『ローマ人への手紙』16:1-2のフェベ、16:3-4のプリスカ、他にトリファイナ、トリフォサ、ペルシスとパウロは彼女たちを「協力者」と呼んでいる。さらに、ユリア、ルフォスの母、ネウレスの姉妹の共同体内での地位は高い。中でも最も印象的なのはユニアで、パウロは彼女のことを「使徒たちの中で目立って」いる、と述べている。
P232:『コリント人への手紙1』14:34-35は挿入、『ローマ人への手紙』16:7の女性(ユニア)が「使徒」として言及されるのはここしかない。→よってユニアはユニアスと男にされているが、古代世界に「ユニアス」という男性名の実例はない。
P237:『使徒言行録』でアキラとプリスキラという夫婦が登場するとき、著者はしばしば妻の名を先に書く。
P245:『ルカ』23:34でイエスが許しを祈った対象は、初期の教会教父たちの文書では間違いなく「ユダヤ人」であるが、2世紀には多くのキリスト教徒が神はユダヤ人を「許さなかった」と信じるようになっていた。
P252:キリスト教徒は近親相姦と幼児殺し、人肉食いの儀式を行なうカルトと見なされたので迫害の対象になる。
P256:『マルコ』6:3−「大工」は建設現場の労務者という響きである。
P258:『マタイ』27:34「苦いものを混ぜたぶどう酒」が「酢」になるのは『詩篇』69:22か『マタイ』26:29との整合性の為か?