日本人の住まい 生きる場のかたちとその変遷 宮本常一
P11:登呂の遺跡様に竪穴式で屋根が地面まで葺き上げになっていて壁が無い家は、(1968年より)20年前には樺太や千島のギリヤーク、オロッコなどの間にたくさん見られた。
菅江真澄『真澄遊覧記』→『菅江真澄全集』(12巻、未来社
P12:佐賀の「クド造り」
P14:「ニワ=作業場」−「一遍聖絵」の民家にはみな土間があるが、武士の家には土間は無い。
P17:草葺は近畿では「ムギワラ」が多く、岐阜から東は「カヤ」が多かった。・・・関東地方の草葺き屋根が皆同じ形なのは屋根葺きの職人が福島県会津田島からやってきたから。
「居蔵」、「築地塀
P24:漁家は「シトミ戸」、農家は「妻戸」
ふすま(唐紙)
P28:日頃は畳んでおいた来客用の「菅筵」が「たたみ」
P28:明治になって百姓も自由に畳を敷いてよい様になっても、日頃は敷かないで積み上げておく習慣が方々に見られた。畳を常時敷く習慣が全国の隅々に広まるのは戦後のこと。
P43:1771年、家族17人中で血縁10人非血縁7人で、この非血縁は下男と下女およびその子供5人。これが一つの家に住んでいた。
P43:「手作」=地主が家族や奉公人などの自家労力を使って耕作する。
P44:「小前百姓」、「結い」=農繁期に労働力を提供しあう。ユイを組む家は大抵姻戚。
P45:主人夫婦は「ナンド」に寝る。元服前の子供も父母と寝る。元服・鉄漿つけ後は「若い者」になり、「ヘヤ」に寝る。下男はウマヤの天井裏に座を付けそこで寝る。下女はナンドの天井裏に部屋が作ってある。
「膳箱」
P45:ヨコザから主人はカマドを見張り、土間(ニワ)での仕事を監督する。
P47:「アゼチ(庵室)」、正月の庭踊りや盆踊りを土間で行なう。
P56:「名子」
「ホマチ田」=ホマチはマツボリ、ホッタ、シンガイとも言いヘソクリと同義。
P61:東北における大きな家、特に大手作を行なった大家と呼ばれる家は、その初めから農業の外に加工製造業を並行して行なっているのが普通である。・・・大抵企業的な経営で規模はかなり大きい。農業だけでは凶作その他の災厄に対する抵抗力が弱く、特に村の中心をなす家が災厄に堪え得る力がないと、一村が滅亡に瀕することが少なくなかった。だから村人は大家を大事にした。
P64:昭和11年2月、東北六県4215戸の一戸当り主屋の平均坪数は全国平均建坪24.5坪に対して1.4倍、東日本の民家は西日本に比べて大きい。
P65:『耕稼春秋』
P66:新潟県刈羽郡北条村東長島では明治40年に36戸中6戸が全土間、6戸が一部土間住まい。また、東頚城郡某村では明治初めに100戸中60戸が土間住まいであり、大正8年の頃なお11戸がもとのままであったという。
P74:傾斜地での「稲架(ハザ)」
P76:住居の近くに常設のハザを持つ民家は四国・九州山脈の山中の畑作地帯全般に見られる。・・・そこは土間が狭い。この地方では焼畑が広く行なわれている。・・・焼畑のそばへ出入り小屋を造って、寝泊りして耕作する。
P89:「下にもおかずもてなす」は広く東南アジアの稲作民に見られたようである。
P111:家の神は祖先神で寝間に祭られていた(『古事記』の同殿共床)が、江戸初めの宗門改めで祖先神は仏として仏壇に祭られ、家の神は寝間の外へ出る。この変化が、寝間で出産を許すことになる。
P117:何処の家にも神棚が設けられていたのであるが、この神は家の神というよりは外から持ち込まれた神が多かった。伊勢の大麻をはじめ、熊野、出雲その他有名な社寺の御師たちの持ち歩く神札を祭ったもので、小さい祠にこれを納めていた
P121:高床式住居地帯では一戸一寝間で、幾つもの建物を持つ習慣が強く、土間式地帯では住居の中に幾つもの寝間を持つ様式がとられる。
P124:自在鈎は東日本に濃く、西でも鉄輪に入り混じりながら九州まで見られる。この自在鈎地帯では釜はあまり用いられない。飯も鍋で炊く。・・・モチの普及によってカマドも北へ広がってゆく。
荒神松」
P132:クド=カマドの神は外来神、他の神と違い常在神で、神々が10月に出雲に行くときにも留まる。
P144:「最上婆」
P145:縁に禁止、窓に課税
P149:ザシキ
P152:都市近郊に商業的農業が発達すると肥料の需要が増大して、町の排泄物を吸収するようになる。・・・(大阪では)借家人の場合、下肥の権利は屎の方は家主がとり、尿の方を借家人がとることになっていたから大便所と小便所は自ら区別しなければならなかった。(江戸は)借家人の屎が家守(管理人)の権利で、この利益が大きかったので、家守の株には大きな権利金が付いた。対して尿は大抵借家人の権利であった。・・・(大阪では)屎は天保13年に1人1年二百文
『慕帰絵』