神社建築史論―古代王権と祭祀

神社建築史論―古代王権と祭祀

神社建築史論―古代王権と祭祀

律令官社制の中で形成される神社を「神社」とする。
P3:津田佐右吉の「日本古典の研究、神代史の研究」
神社建築史の研究は福山敏男、谷重雄など内務省神社局の周辺から始る。
4:建築史として「神社」の歴史は、宗教(仏教)建築史の特殊類型
以下はー津田左右吉『日本古典の研究』ーの記述中心
6:津田左右吉によれば『記紀』の原資料『帝紀』と『旧辞』は、6世紀中頃の欽明朝前後に神代史と神武から仁賢までに纏められた(原帝紀、原旧辞)。神代史については引き続いて原旧辞に潤色が施され、次いで帝紀旧辞の異本が作られる様になる。推古朝には全体に渡りかなり重要な潤色が施されると共に、その後推古朝までの帝紀的記述が補われた。『記紀』編纂を企てた天武朝の頃には『古事記』序に記載されているように、各種伝わる帝紀旧辞の記載は区々に乱れており、細部まで原形のまま伝わっている物語は殆ど無かった。
7:物語(旧辞的内容)に対する津田左右吉の結論
神武ー仲哀・神功=史実は皆無
応神ー仁賢=『古事記』史実は無い。『日本書紀』の記載で百済の史籍の引用はべつにして「古事記に無い記事があってもそれは古くから伝わる史料から出たもの」では無い。
武烈ー敏達=旧辞から引用できない為に、歴史的事件の記録らしい外観を有する記事のみを考案した。
用明ー持統=用明・崇峻・推古の諸紀は事実として信用し難いものは少なくない。舒明・皇極紀とはむしろ用明・崇峻・推古の諸紀と同様に見るべき、孝徳紀からは概観すれば確実な史料が出たと認むるが、斉明・天智紀、特に天智紀は造作された記事が少なくない。天武・持統紀は(幾らか疑わしい記事はあるが)純粋な年代記的集成であると言うことができる。
後世の潤色や添加が簡単に判るのは「そこに現れる風俗や思想が、物語の作られた時代のものである」からなのは云うまでも無い。
9:3)出典が中国の文献等に確認される場合は、多くの場合史実では無い。
4)神と人間は古くは画然と区別されていたが、次第に人格を持つ神へと変化する。具体的に云えば原帝紀旧辞の編纂時期には人格を持つ神は存在していない。
11:渡来人による「藩神」の祭祀が日本に根付くことは無かった。「神社」という場所は、在来信仰の中から成立して来た。
12:原旧辞即ち原神代史とも云うべき内容は「日の神を皇祖とすること」、皇孫降臨、「国土日月の生まれた物語」のみ、「古い形に於いてはイサナキ・イサナミの二神が最初の神」で、「この二神がオホヤシマとその統治者としての日の神を生んだ」とする。原神代史ではスサノオとオオナムチの関係する物語が無く、皇孫降臨へと直結する。皇孫降臨の初めの形は日の神の命令でホノニニギの命がヒムカの地に降るが、そのときに神宝は無く、随伴して降りた神々もいなかった。
神代史の異本が生ずる前に現れていた(各異本に共通する)神社に関する神は、アメノヤスノカハラの誓約のときに生まれたムナカタの君を祭る「タキリヒメ・イチキシマヒメタキツヒメ」の三神に限られる。
13:(古代の有力神社)
大神神社:原旧辞の成立した後の早い時期、伊勢神宮:6世紀後半に建立、推古朝?、出雲大社大化の改新以後の建設
津田によれば6世紀半ばまでには、神社と呼ぶべきものは無い。大和地方では三輪三山の精霊、漁民には住吉の神が崇拝されていても、一定の場所で定常的に祀ることは無かったであろう。
14:出雲と大和の結合は最も新しこと。。
P18:鏡が神として宮中に奉祀してあったようなことは「上代」には無い。推古朝頃の伊勢神宮建設以前に、アマテラスが宮中に祀られていたことと、祭祀の場所を求めて巡業した伝説は虚構とした。
P20:原帝紀・原旧辞の成立する以前に上代の神といわれたものは到る所に存在する霊物や不可視な精霊などで、一般の名称はあっても固有の名前や人の性格は無いもの。庶民における信仰は奈良時代に到るまで概ねその範囲を出ることは無い。
P23ー8:特に雄略天皇一言主神の話で「神が人の形を現す」ことは(雄略)当時なら「あるまじき筈」である。『日本古典の研究・下35頁』
P30:官社の指定に伴い社殿が普及した。
P31:福山敏男『神社建築』(1949)の「農耕の季節儀礼の中から神社の社殿が次第に形成された」とは、福山以前には誰も述べていない。福山がこの神道考古学と民俗学の成果を勘案した新説を提示するに際して、論証の手続きを踏んでいない。
P39:修理は建設・新造と同義:「修理」にはあるべき姿に「つくる」の意味がある。
P42:出雲大社熊野神社大神神社住吉神社等は朝廷が造作している。:国策によるあるいは有力な在地首長の祭祀を継承する神社には、農業の季節儀礼による社殿成立の前史はないであろう。
P43:出雲の服属する交換条件として社殿を与えるという関係は、在地首領の崇拝する神が社殿を持つに到る経緯を伺わせる。官社の形成の前段階として、国家神を各地に建設し、帰順する地方の首長に社殿を与えることが先行した。
P44:『記紀』に神名だけでなく神社の名あるいは神とその居る場所が併記されているのは『古事記』×18、『日本書紀』×47で重複を整理すると「51」である。
P49:欽明朝:皇祖神を除けば宗像三神と住吉神のみしか見られない。この二神は「軍事、交易」に国家が必要としたが、海路上の「道中」にあって、未だ「鎮座地」は無い。
推古朝:三輪三山のオオモノヌシ>伊勢神宮>ヤマトのオホクニダマの神の順序で『記紀』に現れた。『古事記』では御諸山で神を拝したとあるので、三輪山は郊祀の様な形式で具体的な神域は確定していない。
推古朝以後ー天武朝以前:渡会宮、杵築大社、気比神社、葛木坐一言主神社などが辛うじて『記紀』の史料に出現する。
P54:歴史用語としての「神社」は官社制の中で形成された。明治以降から戦前までの「神社」の概念も政策的なものである。一方、(神を)祀るという共通性に着目して、祭祀遺跡や神体山信仰などありとあらゆる対象を「神社」の流に含めようとする考えは、近代の作為された歴史概念である。官社として出発した神社が在地の信仰を如何に取り込んで内容を改めていったかを考察すべきである。
P56:安津素彦は『出雲国風土記』と「延喜式神名帳」との整合的な解釈を断念した。近年の『式内社調査報告』でも安津氏に替わる見解の提示は無い。出雲国風土記の神社名は神名帳とは異なる原理で並んでいる。
P70:直木孝次郎は『万葉集奈良時代より前、白鳳時代の歌に現れる神観念を考察して、当時「神はかしこきもの、恐れるべきもの」で神を貴いとする思想は恐ろしいと考える信仰よりは新しいとした。
風土記』に現れる神はほとんどが地域住民に災いをもたらす。
P74:『豊後国風土記』の大部分は土蜘蛛の征討記事。『風土記』の祟り神は地方民衆の政府に対する反抗が祟りとして表現されている。
P78:山の替わりに山の麓(山本)にミニチュアの自然を造って祟る神を閉じ込めて仕える。神社の「もり」が形成される一つの契機が推測できる。
P79:「祟る神」は少数の例外はあるが「式内社」にはなっていない。
P82:『風土記』時代の神社形成の契機は国家が建設する他に祟り神を押し込めることが知られるが、農耕儀礼に発する痕跡は認められない。社殿の存在は国家による神社には明証があるが在地の宗教施設には明証はない。また、在地の宗教施設の形成よりも国家による神社建設の方が先行する。
P83:八世紀前半までに史料に認められる在地の宗教施設は、祟り神を押し込めるものと、渡来神を祀った祠と、創祀の経緯が不明であるが名前のみ知られる僅かな施設である。
P84:7・8世紀の在地の「祝」が官社の「祝部」になる。官社の母胎は大宝律令以前の史料に現れる「祠」
浄御原令の制定以前までは、在地首領層が領内の人民に課した賦役労働は、法制上は国家の規制外にあり、伝統的慣行または首長の恣意によって課されていた。(石母田正
P86:官社制は(したがって神社は)在地の信仰が「自然に」結実したものではなく、在地の宗教伝統を国家が創始した官社という形式に誘導したのである。言い替えれば、神社は在地の宗教伝統の一部分に基礎を置いて構築されたのであって、在地の宗教伝統の全てが神社に糾合されたのではない。神も仏も区別されない神仏混淆や、修験・山岳仏教などによって継承、開拓された在地の信仰の流が中心であろう。
P88:官社成立の頃には磐座などの原始的祭祀は人の記憶から消滅していたかも知れない。
P105:大分県瑞雲磐座遺跡では、古墳時代末と9世紀後半以降の供献品の間に空白期間があるという。忘れられた原始信仰が、神仏習合により(再)発見され吸収された事例であろう。アニミズムとしての神祇信仰が一度は消滅して修験・山岳信仰により復活する。
P111:相嘗に預かる神社が天武朝より前に神社として成立していたと推論する根拠は無い。
P32:9柳田国男神道民俗学』(定本柳田国男集 第十巻)
P126:世にもし独立棟持柱付き高床建物=祭壇(神殿)説のような先験的な仮説が存在しているようであれば、建築史とは無関係の想像の産物、と考える。
P131:農耕儀礼から臨時の祭祀施設(神籬)・仮説の神殿・常設の神殿という発展段階を踏んで神社が成立する説(福山敏男)←根拠となる論考は無い
国家による神社建設や有力社の成立が自然発生的神社よりも先行する説(岡田精司)
P132:『記紀風土記』から知られる天武朝より前の神社建設は比較的確かな記事として鹿島神宮常陸国風土記、大化五年(649))と熊野大社(一説に出雲大社、日本書記斉明五年(659))が僅かにある。また、伝説的記載でも住吉三神や宗像三神の鎮座や杵築大社が想像できるにとどまる。
P133:官社制発足当時の社会の信仰は、地方では在地首長の指揮下にあったが、中央や先進地域では道教の人形(ひとがた)を用いた祓が行われ、『日本書紀』の記載では渡来の漢神や常世神が崇拝され、祖廟が建設されていた。官社からすくいとられなかった在地の信仰は、山岳宗教や本地垂迹神仏習合)の施設として現れる。
P134:官社一般が建築の面からは停滞にあったと考えられる一方で、奈良時代半ば以降、神社建築を大きく動かしたのは本地垂迹系の神社であった。
P134:本地垂迹系の神社が史料によってその成立と変化をある程度たどれるのに対して、従来古代の神社本殿形式の大社造、住吉造についてはその形式の成立が古代であることを示す史料が無い。
出雲大社は鎌倉期の絵図が最古、住吉大社は平安後期の本殿軒の長さと二室の構成であったことが僅かに知られるのみ。
P136:出雲大社で鎌倉初期の巨大柱根が発掘され、古代以来の高大な神殿が継続したとする想像が、新聞各紙を賑わせたが、今次の発掘範囲および昭和30年代の拝殿前方の発掘で、当然検出されるべき「引橋」(前階)の支柱が検出されていないので、その高大さには疑問がある。
P614:延暦二十三年八月「延暦儀式帳」には舒明・天智系の祭儀復興を意図する桓武天皇の介入に対して、天武・聖武系の祭儀・式年造替の慣行が崩壊する危機感から伊勢神宮側の抗議・訴えの意図が込められている。
延暦儀式帳」には「神明造」の形式や諸社殿の規模が未だ固まっていない様子が伺える。
P175:「延暦儀式帳」では建物の床上高さと一致する建物のみ「土代」が認められる。これは直接土の上に立っていた痕跡を示している。しかし、『延喜式』の時代になると全て「土代」が敷かれるようになるので、それだけ「儀式帳」は古式を残している。短期間に伝統が忘れられることもあるし、新しいものが伝統として意識されるのにそれ程長い時間はかからないことを示す一例であろう。
P184:『心御柱記』
P188:中世では盤木は不使用、正殿に祭る神とは別に心柱に宿ると想像される「守護神」があったが、近世には忘れられた。また、中世では仮殿の位置に先ず石が据えられ榊が立てられた。
P200:心柱の位置について責任があるのは神官よりも建設技術者。
P201:心柱は正殿の中心位置を示す為に立てられた。平安期を通して政府は心柱の正躰に神体に準ずる宗教性を公認することは無かった。平安期以降に心柱の顛倒が頻繁に起るのは「守護神」を埋める様になって、根本を突き固めるのを躊躇するようになったから。
P235:奈良中期以前の内宮正殿は「床下は無い」切妻造神殿で、棟持柱は無く、心柱も無い、律令制官社の建物形式を極端に巨大化したもの。
P255:中世を通じて外宮正殿は内宮正殿を凌駕している。
P262:『太神宮諸雑事記』では、持統天皇即位4年に第一回の内宮遷宮として、和銅2年、天平元年天平19年、天平神護2年延暦4年と内宮の遷宮が続く。内宮正殿は基壇上の建物から始まり、高床建物に変化した後に棟持柱が導入されて神明造へと変化する。僅か100年の間に建築様式を改めた。定期造替(式年遷宮)は、建築形式の継承を目的とすると建築史で云われることがあるが、王権の意思、王朝の交替(道鏡桓武帝)によってその形を改めたのである。
P263:伊勢神宮の神殿は持統天皇が建設した天武天皇の廟:外宮は「斂」から「殯」に到る鋪設に類似し、内宮は神霊が生活する意味で陵墓の墓室や陵寝と近しい。