12:『一遍聖絵尾張甚目寺の「有徳二人」とは、境内を我が物顔に歩く「高足駄で団扇を手にする総髪」と本堂の縁先に手を付いて跪く「下げ髪、束髪」で両人とも「烏帽子」を被っていない。
41:「唐船」は唐仕様のことで、船籍を差す訳では無い。室町時代には飴売りの唐人に自由通行権を保証した「綸旨」が出ている。
80:中世の市場は「市庭」、非人の乞食する場所は「乞庭」、河原者も「御庭者」
113:新羅との交渉には通訳が出てくるが、百済のときには出てこない。
114:「白村江」の戦後には「非列島式=朝鮮式」の山城が対半島防衛に築城される。
116:『右記』によれば、遊女・白拍子は「公庭=朝廷」に属する。
133:天皇権威の低落:足利義満天皇の権威のみでは不十分と考え、中国皇帝と天皇に両属する形で「西日本」の統合を達成できた。義満は洛中の「酒屋(延暦寺の山僧や日吉神社の神人)」に課税するも抵抗には遭わない。対して後醍醐天皇は酒屋に課税を求めたが、大寺社の反対で不成功に終わる。
148:15世紀に「夷千島王」が朝鮮国王に使いを出し「大蔵経」を所望した事実がる。
152:藤原頼長台記』:「今日、あの男をかわいがった」
156:閉じられた空間では穢れは「伝染」する。
170:浄土真宗一向一揆と被差別民との関係→河田光夫、石尾芳久
172:能登・加賀・越中=「藤内(とうない)」:『解体新書』での「腑分け」の実行者はこの被差別民、山形・秋田=「らく」、山陰=「はちや」
183:P・ボハナン『アフリカの民族生活』ナイジェリアのティブ族の太鼓合戦
189:川田順造『聲』
191:「風聞」瀬田勝哉「神判と検断」『日本の歴史』5:鎌倉時代の裁判では「風聞」が非常に重要視されている。
194:「微音」と「高声」、197:「高声狼藉」
199:13世紀中頃、摂津国広田社に神祇官が下した文中には”越訴(直訴)にあたっては高声子細を言上すべし”の一条がある。
200:「哀音亡国」
220:一遍の道中安全を保証した美濃・尾張の「海賊・悪党」は自らの力で「海道」の交通路を管理し、高札を立て自らが定めた禁制を実力で三年間も実現した。
230:阿弥号を名のる百姓:正中二年(1325)備中国新見荘地頭方の実検取帳(東寺百合文書)には「得阿弥、善阿弥、性阿弥、法阿弥、蓮阿弥、新阿弥、師阿弥、念阿弥」など多数
237:東国諸国の荘園・公領の年貢の殆どは「絹、布、綿」であり、西国でも「塩、鉄、材木、くれ、炭、油、紙、牛」、東北では「馬、金」など多様な物品が年貢となっている。米を年貢とする荘園・公領は九州、瀬戸内海縁辺、畿内、北陸諸国を中心とする一部(?)に留まる。
243:「農本主義」対「重商主義」の衝突に台頭してきた「悪」の問題と正面から向かい合った思想家が「鎌倉仏教の祖師達」