先祖供養と墓
10:日本人は人の魂が神になると考える民族であるが、平田神道ぐらいから”死は凶で神は吉だから、両者を混同してはならい”、という様になる。
24:考昭天皇が38年と特に長い他は平均1年8ヶ月、臣下に殺された場合は無い。
25:天照大神が天岩戸に隠れたのを「墓前祭」としたのは新井白石『古史通』、または多田義俊(南嶺、1698-1750)『南嶺遺稿』『神明憑談』
26:「酒を飲む」を「えらぎ」:「えらぎあそび」
28:遊部は火葬の台頭でリストラ
35:檀林皇后は死刑の法はあっても死刑執行をしない様に嵯峨天皇に進言して保元の乱源為義までの200年死刑は執行されず。
「檀林皇后九想図」
37:香川県多度津町左柳島の積石墳→95:
60:大正時代まで信州・沖縄には葬式を「叩き出し」と呼称した記録はある。
70:祇園祭で祭りに関係あるのは「疫神社」
75:埴輪は古墳の土留め:形象(人・動物)埴輪よりも円筒埴輪の方が古い。
83:(発掘結果から)聖徳太子が死んだのは(現)法隆寺夢殿のある東院:「夢」は亡き人をしのぶ言葉
89:土殿での墓守を「倚廬(いろ)」という。喪屋が「廬(いおり)」なので「廬に倚る」:イロ着は倚廬着
101:日本仏教は大陸仏教を「誤解」したがゆえに、世界で殆ど唯一の仏教国として残った。
104:八宗兼学・四宗兼学:宗派独立を非常に尊重する様になるのは、他宗を学ぶのを禁止した「諸寺法度」から
107:天平勝宝8年(756)5月3日、聖武天皇の葬送に御装束司(湯灌?)、山作司、造方相司、養疫夫司が任命
125:六波羅密寺の付近を現在「轆轤(とくろ)町」というは「髑髏(ドクロ)」から、六波羅も髑髏原から(と思う)
138:擬制血縁:非血縁でも氏上(うじのかみ)の支配を受ける位置にある者を古代では「部民(かきのたみ)、部曲(かきべ)」
:血縁集団としての氏が大化改新前後で崩壊すると、共同体は「村」となる。村が大きくなると「講」に分けて葬送に当たった。
140:日本の村落に多数決は無い:この運命共同体は少数を犠牲にしないという観念の宗教的集団であったからである。
141:親鸞”弥陀の本願を信じさえすれば念仏をいっぺんも唱えなくとも往生できる”
162:人の霊魂を「踊神(おどりがみ)」というところもある
165:風流=変装
167:禅の本来は融通無碍な宗派
174:「五百羅漢」は「忌明け参り」に死者に似た顔を見出しやすくして参詣者が安心して帰れる為に存在している。
179:釈迦が説いたのは「四聖諦、八正道、十二因縁」ぐらい
184:祇園祭は「南北朝守護大名応仁の乱後の町衆→最近の観光業者」の順にダメにした。:コブラン織りの「鉾=穂木」が勿体無くて再利用する様になり、怨霊を流さなくなった。
188:経塚を掘っても軸ぐらいしか出ない:文字が残るのは非常な偶然
190:『当道要集』
193:「曳覆曼荼羅」:本願寺(大谷)と関東の原始真宗教団は全く信仰内容が違う。:真宗高田派が京都に頭を下げたのは室町の高田派十世真慧(しんね)から
194:高田派の本来は善光寺信仰
196:浄土宗の『蓮門精舎旧詞』:墓守の遊行者が檀林・大学で学んだ後に寺を持った経緯が解る。
197:道場の道場番・留守居が僧侶の資格を得て自分の道場に「寺号」を付けた。
199:『吉事次第』『吉事略儀』の「吉」は凶を嫌って凶事を吉事に言い換えている。
201:塙保己一は葬式・墓の文献価値を認めていたので『群書類従』『続群書類従』『吉事次第』が残る。
202:『吉事次第』納骨にある「したしきひと」とは普通は「主人の召使」を指す。
203:比叡山が堕落を極めたのは「祠堂銭」を酒屋・土蔵という金貸しに貸して儲けたこと。
207:施米と温室(風呂):蒸し風呂時代の「湯浴み」は「水」を浴びる。
209:僧は立宗の祖師よりも宗派を創らない人の方が「偉い」:道御、行基空也
215:吉見百穴
219:寺檀制度の確立以前の葬儀は「念仏講の自葬」
220:檀那寺の地位向上に伴い「住職」が葬儀を「伴僧、役僧」などの(主に浄土系)下級僧にさせるようになる。
221:本寺は寺領を明治初年に上知した後、しだいに返還されたが、進駐軍にまた取り上げられる。占領完了後に理由次第で一部は変換された所もあるが、現在の「本寺級」は困窮している時代にあると言える。
223:過去帳の「備考書入」が差別であると封印・閲覧が許されない。
224:『二巻章』を基に福山乗道師編『葬儀と仏事』があるが、葬儀は「棺前葬・庭葬・野辺葬」の三回
225:棺前葬では「四遍念仏」、庭葬〜野辺葬の間で「白舞」=行進曲、野辺葬では「阪東」=踊曲
231:棺を船と云った時代もある。
235:中世では神官も仏葬:伊勢神宮の荒木田・渡会氏にも氏寺があり仏式の葬儀、明治維新で氏寺が全部破却されて「神葬祭
髪長、女髪長、染紙、阿良良岐、瓦葺、「内の七言、外の七言」
『修験一派引導作法』
238:「元禄の秋葉騒動」:秋葉神社高野山による(二枚鑑札の)末寺の取り合い。元禄年間に高野山は自己の末寺を組織化、山伏寺が大量に真言宗末寺となる。その前から真言宗醍醐派は山伏寺を末寺にしていたが、「恵印流」と蔑んで呼んでいた。この差別が無くなるのは大正6年。
241:善光寺は個人の家に拝殿を造って外陣ができたという形
242:崇神天皇以前は「出雲大社」様の「同殿共床」
249:香川県善通寺近くの「弥谷寺」:洞窟の納骨場
250:両墓には、山の上に埋墓+山の麓に詣墓=「山上山麓型」、村の共同墓地(三味)の埋墓+村の寺に詣墓=「三味寺墓型」、火葬は早い風葬と考えて火葬場が第一墓地+遺骨を納める墓を第二墓地とする「火葬場納骨墓型」の遠隔型両墓制に分けられる。(一見単墓に見えるが)埋葬後に位牌を仏壇に飾れば、埋葬地が埋墓で位牌と仏壇が詣墓の遠隔両墓である。
251:詣墓・埋墓隣接型=近接型両墓:戦死者に出た「下賜金」で石塔建立を半ば義務と思ったことが始りか?
遠隔型両墓→近接型両墓→単墓制