考古学はどう検証したか―考古学・人類学と社会

考古学はどう検証したか―考古学・人類学と社会

考古学はどう検証したか
16:「昭和18年北京原人憲兵隊調書写長谷部資料」の表紙書きは長谷部言人(ここんど1882-1969)だが英字文「長谷部用紙」の筆跡は高井冬二(1912-2002)による。
42:北京・天津を占領し中国軍が掘った塹壕を「万人抗」に変えた。
126:弥生時代最初期から鉄器が存在したという説は小林行雄『日本考古学概説』、杉原荘介『世界考古学体系』『日本農耕文化の生成』、近藤義郎『鉄製工具の出現』、『弥生文化論』等で1960年代に強固となる。
128:1951年小林行雄が唐古遺跡で角製刀子把としたのは「刀子把」はなく「弓筈状有栓鹿角製品」の未完成品。「孔中の鉄錆」も角の燐分と地下水含有の鉄分が化合して生じた蘭鉄鉱(vivianite)の見誤り。
132:板付遺跡・那珂遺跡は発掘規模は大きいが弥生早期・前期の鉄器は1点も出土せず。
133:1929年直良信夫による兵庫県吉田遺跡の鉄板:別遺跡に属している。伴出土器も弥生前期に非ず。
136:半島南部に鉄器が出現するのは細竹里ー蓮花堡文化の時期で燕国系統の鋳造鉄器で前3世紀。
137:日本列島では鉄器は杭の先を尖らせる工具として現れ、鉄器で農具を作るまでには非常に長い時間の経過が必要だった。
138:宮原晋一:弥生中・後期に打ち込んだ杭の先端が弥生早期から中期初めの層に達していたのを誤解している。
139:鉄器の刃を研ぐ目の細かい砥石の出現は弥生中期から
141:唐古遺跡の木製高杯の修理に「銅針」が使用とあるのは、鹿角製針の燐分が水中の鉄分と化合して緑青色になっていたのを小林行雄が誤解した。
166:夏王朝の復元されている壮大な宮殿も青銅器の普及状況から判断すれば、石器を主要な木工具にして建造された。
167:弥生早期には高顔・高身長を特徴とする渡来系人骨の発見はない。抜歯の型式の上顎犬歯と下顎全切歯を抜く縄文系。
168:抜歯風習:大陸系の抜歯の型式が列島に伝播するころには、大陸ではこの風習は消滅していた(ことになっていた)。
178:1965年に刊行された楼上墓の正報告書[中・朝合同考古学調査隊1986]には、「明刀銭」出土の記述は無い。
184:結局、鉄器は弥生中期初めに現れ、それは鋳造鉄斧またはその破片を「硬質・良好な石」素材という感覚で、磨製石器を作るように研磨して製品化したに過ぎない。
218:上高森「埋納遺構2」No.3は両側縁が新しく磨耗(ガジリ痕)している。No.11には酸化鉄の線が稜線に付いている。
232:「押圧剥離」は後期旧石器時代から
238:上高森では18×33mの狭い範囲から8枚の文化層が確認されている。袖原3でも8×8mと3×3mの範囲内で9枚見つかっている。
273:レンフリューとバーンの共著2004年『考古学におけるペテン』
304:中国の古銅器の偽造法を記した『鉄網珊瑚』
304:模造品:最近20年間に開いた日本各地の博物館・資料館の大部分は「模造品」によって成り立っている。体系的な展示をするには「模造品」をまじえなければ実現しないからである。
310:松山市南江戸町朝日八幡社裏山発見弥生土器の線刻画:完全品なら描くことの難しい頚部内面にあるので偽刻と考えたが、真物として取り上げている地元の研究者に遠慮して口に出せず。報国後45年経ってはじめて「後世の偽刻」という事実が文字になった。
320:銅鐸の模造品:”私だけでも10例くらいは見ています”佐原真
323:「異形銅矛」=愛媛県貴船神社大山祇神社香川県和文庫、伝出雲大社、辰馬考古資料館、国学院大学蔵:青銅に日本産の鉛を使うのは奈良時代からで、亜鉛を意図的に利用するようになったのは近世から:中世以降、祭礼に鉾が使用されるようになり、また有識故実の研究の進展によって鉾の価値が高まった結果、神宝を整備することによって社格を昇進しようとする動きが神社側におこり、銅矛の模造が盛んに行われた。偽造に時代背景ががあり、偽造品の研究が歴史の真実を解明するうえで意味をもつことを証明する例である。
327:岩手県一戸町の梅垣県三と梅垣哲雄が晩年に制作した土器・土偶は発掘品と区別がつかない出来栄えで、2人は人が間違えないように土偶の足裏や土器の底部に「梅垣作」と掘って明らかにしたが、上手になる以前の名が掘られていない作品は古美術商の間でかなりの数が売買されて「模造品」が「偽造」になってしまった。
328:土偶99.99%は破片で見つかる。
345:「日岡陵は円墳:”御陵に円墳はないというので前方部をつけ加えることになり、自分たちも(日岡陵の)土盛りを手伝わされた”赤松啓介(栗山一夫)が地元民から聴取
346:前方後円墳の捏造は当時の宮内省陵墓考証官の頭の中を蒲生君平が著した『山陵誌』の開化から敏達までの皇陵は「其の制たるや必ず宮車を象りて前方後円ならしめ、壇をつくること三成(みかさね)。且つ環すに溝をもってす」が支配していた為。
347:桝山古墳、神武陵、祟神陵は変造あるいは捏造。
348:森浩一曰く「仁徳陵」三重目の濠は日清戦争の賠償金で掘った。:濠の完成より少し前と思われる1889年の地形図で判る。
349:補記ー日岡陵の変造問題は決着している:埋葬箇所が荒廃している為に行われた「化粧土程度の置土工事」で日岡陵は日岡山古墳群最古最大の前方後円墳である。
367:「黒日売の塚」の伝聞成立は陵墓参考地指定終了後の1890年ー1900年までの間。
鈴木良・直木孝次郎
369:現「神武陵」が指定されたのは1863年(文久3)、その時の有力候補地は丸山とミサンザイの2箇所で、遡れば塚山(現「綏靖陵」)は1697年(元禄10)に「神武陵」に指定されて、以来150年以上もそれとして扱われた。
ミサンザイの確定根拠として大いに利用されたのは、1855年(安政2)『御陵並帝陵内歟(か)と御沙汰之場所奉見伺候書付』
383:現「神武陵」は1862年(文久2)に全国116の「天皇陵」およびその候補地とともに修築された。修築に使った費用総額は43564両だったが、うち「神武陵」の修理に15062両と全体の34%強があてられ、7ヶ月がかけられている。
390:洞村は1854年当時、120戸からなる被差別部落:「神武陵」復興の動き自体が尊皇攘夷運動の激化の過程で大きくなった。
391:後藤秀穂は1913年(大正2)に『皇陵史稿』を発行し、皇陵と被差別民が隣接するのに国民の眼が向けられるのを恐れ、村民移住を訴えたのが、洞村部落移転に決定的な役割を果たす。:”御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつつある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、霊土の中に、爛れ、腐れ、−中略− 今に霊山と御陵の間は穢多家で充填され、そして醜骸は、をひをひ霊山の全部を侵蝕する。”
398:国源寺の創建は1187年:今日の「神武陵」の中核となった方形の小丘が国源寺の基壇であることはほぼ誤りない。
404:「継体」が応神五世の孫と称し、皇位継承正統の根拠を皇室との繋がり求めたこと、「継体」が磐余(いわれ)の地に宮をおいた『記紀』の記事を手がかりに、「神武」は「継体」の時に創出されたと考える。「神武」が『記紀』で神武の項以外で出るのは『書記』継体24年の条「継体の詔」があるだけで、これも中国の『芸文類聚』治政部にある文を人名を変えて転写しただけである。
405:「神武陵」の存在を想起させた人物は朝廷部外者の「高市郡大領」なのは、活用価値が無く朝廷から忘却されようとしていた状況を看取することができるように思われる。しかし、壬申の乱の立役者である神武陵を「天武」が蔑ろにはする筈が無い。
410:「神武陵」創造の時期は、欽明朝以降、遡っても宣化朝以降で天武朝以前、おそらく6世紀前半ー中頃。
421:「神武陵」が古墳ではなく、宋廟なら遺体や棺・石棺は必要なく、何かシンボルがあればよい。
神武伝説が継体の大和入りをモデルにしているとすれば、(在位32年という権勢の)欽明朝に父・継体をモデルにして神武伝説を完成したことになる。
422:磐余彦の名の起りも、欽明の父・継体の宮号を磐余玉穂宮と呼んでいたのが由来か?
継体は神武と同じく三島と縁が深い。
486:直良信夫は自然石を旧石器と主張するほどに石器を見る目は無かった。
489:無学歴の屈辱・劣等感が直良信夫の研究意欲の原動力:学問と趣味、専門と非専門の区別が無いから、関心あることは何でも本に纏めた。明治以降の日本の研究者で、考古学・人類学・古生物学・生態学・植物学・歴史学・随筆など直良信夫ほど広い分野で論文・著書を発表した人はいない。いうなれば最初で最後の博物学者であった。
490:直良信夫の『日本産狼の研究』は他の追従を許さない業績:現在の日本考古学界では、直良信夫は日本の動物考古学の開拓者としての評価が最も高い。