ひらがな日本美術史 3

ひらがな日本美術史 3

ひらがな日本美術史3
日光東照宮
16:安土桃山時代的な派手さが手付かずのまま残されている日本で唯一のの大記念碑。
17:現存はしないが、安土桃山の建築物は東照宮よりもケバケバしい、見ただけでゲッソリしてしまうものかもしれない。
「侘茶」は言い換えると「貧乏茶」
18:近世の城が登場する以前は、屋根瓦の建築物は寺と官庁。室町将軍御所でも、平安期以来の檜皮葺きの屋根。
19:城の突然変異は安土城織田信長豊臣秀吉は豊国神社で「霊廟建築」という突然変異の嚆矢となる。
20:皇族でもなく非業の死(神田明神北野天満宮)を遂げた訳でもないのに神様として祀られた(となるように命じた)のは日本では豊臣秀吉が最初。
21:大明神の”大”と”明”は美称で唯の誇大表現で、神様と同義語。
25:神社といえば「朱塗りの柱に檜皮葺」のところを「白と金」、「黒と金」が氾濫して、オマケに屋根は銅瓦葺と欧州的な匂いがする。
坂下門の向こうにある奥社に続く階段(二百段)は各段が「一枚石」
桃山時代的自己主張:”日光の東照宮に行ったら、ゴテゴテした細工物の一々に目を奪われないで、このとんでもない自己主張の全体像に目を向けることをお勧めする。こういうハリウッド映画のようなとんでもない「自己主張=スペクタクル」が、かつての日本にはあったのである。”

<能装束>
26:書院造以前の男は邸の中に自身の部屋は無く、プライベートは女の部屋で過ごし、後は全部パブリックで、全体が自分のものである邸の中をウロウロしている。
28:昔の能装束は「能のための舞台衣装」ではなく「豪華な暮らしをする人達の日常着」:能の根は”幽玄”だからド派手な衣装の要求は無いが、パトロンからの”お下がり”を貰ったり、観客が着ているものを”おひねり”としてプレゼントされた為に派手で豪華な衣装が定着する。
29:「染めの着物に織りの帯、織りの着物に染めの帯」→「友禅染の着物に西陣織の帯」
32:「唐織」が「室町時代の上流階級の豪華な日常着」
33:「片身替わり」 34:刺繍の手抜きが「余白」を生む。
36:「臥したまへりけり」:平安の「十二単」は重くて辛かったので、すぐ横になった。

<変り兜>
39:<肉色塗入道頭形兜>
38:源平戦時代には剣法・剣術という言葉がない:下馬した武士同士が直接戦うときは「組み打ち」という。
41:「変り兜」とは日本甲冑史の最終局面に登場したいたって実用的な「当世具足」の兜。
43:<三宝荒神形兜> 44:「風流=ふりゅう」と読んだ。「おしゃれ」とは「戦いたい気分」
46:<猿面形兜=革包二枚胴具足>、<黒漆塗執金剛杵形兜>、<頭形五輪塔頭立兜>、<銀箔押一の谷形兜>、<銀箔押富士山形兜>、<金箔押栄螺形兜>、<朱塗合子形兜>、<伊勢海老形兜>
「合子=丼」を誇らしく被る。

<辻が花小袖>
51:袂が無い古い時代の着物、平安貴族は小袖を下着として着て、上に大袖を着る。
52:武士が支配階級になると、上着=大袖を脱いだ小袖のみが基本になった。
56:「絞り染め」、「描き染め」
59:応仁の乱以前に「水洗いのきく木綿」は無い。あるのは「豪華な絹」と「庶民の麻」
60:辻が花の本質とは、大胆で、明快で、貧乏であるような”美”ーすなわち「大衆性=ポップ」

高台寺蒔絵>
65:「ねね=北政所」は数えの十四(今なら中学1年生)の時に秀吉に嫁いだ。
68:本妻は「夫との愛」を妾は夫の財産を取った。関ヶ原合戦の時に北政所が自身の親戚の大名達に「豊臣を裏切って徳川につけ」の指令を出す。
72:「研ぎ出し蒔絵=沃懸地(いかけじ)」、「梨地」

<泰西王侯騎馬図屏風>
73:鴨南蛮の”南蛮”は肉ではなく”ネギ”の方 77伴天連=パードレの音写
80:「曜変天目茶碗」:「窯変」というカマドの中で自然発生的に起る変異で、日本人はこれに「類稀なる美」を発見してしまうが、中国人にとっては単に「失敗した奇形」で、日本でしか評価されない。
室町から安土桃山に完成される茶道では、茶碗も掛け軸も全て「中国渡来の製品=唐物」でかためるのが、一番の本式。
83:芥川龍之介「きりしとほろ上人伝」
88:「カッコいい馬に乗るカッコいい人達を描いたカッコいい絵」:戦国武将には『厩図屏風』が流行る。
89:安土桃山には「ヒーローを崇める」という発想が無い:江戸時代の後期浮世絵まで「活躍する特定のヒーロー像」は無い、それ以前の日本というのは「男のカッコよさを飾る」という伝統が無い国であった。

狩野永徳筆<唐獅子図屏風>
93:狩野永徳は「生没年月日」が判る稀な画家:「いいとこのお坊ちゃん」として生まれたということ
105:「世間の水準をいともあっさりと越えたとんでもない(自由な)お坊ちゃん」が安土桃山時代を創れた。

長谷川等伯筆<楓図襖>と長谷川久蔵筆<桜図襖>
116:長谷川等伯狩野永徳の悪口を千利休と共にしていた。

長谷川等伯筆<松林図屏風>
128:幽玄とは、おそらく、ヌーベェル・ヴァーグの出現を待っているようなものなのである。

狩野探幽筆<二条城二の丸御殿障壁画>
130:間接光が入る「明かり障子」以前の障子は、現在の「襖」で遮るもの。「衝立、屏風」も障子の一種で立てるものだった。
132:書院造り登場以前の寝殿造りには「壁」が無いから間仕切り用の「障屏具」が必須で、壁がない以上「障壁画」の出番は無い。
初めの日本人は「塗籠」で寝た:平安前期までの日本の上流階級は「穴倉で寝る」習慣を持続させていた。
133:雪舟は最も室町時代的な「床の間用画家」
138:「金碧障壁画」はカラー化した山水画:「碧」は濃い緑(木や山)や青(水)

<姫路城>
152:白鷺城は1つだが、舞鶴城は六つある。:『枕草子』の「鳥はーー」という段で、清少納言は鷺のことを「見た目が見苦しい」と言っている。平安時代の日本人には鷺は「白い美しい鳥」ではなく「騒いで争う、そこら辺にいる鳥」
158:安土城以降の「黒い漆塗りの板壁」は「豪華・美」の為で燃えやすく「実用」では無い。
160:真っ白な漆喰で塗り固められた姫路城は「耐火建築」で、難燃をひたすら求めた「実用の権化」
161:「白鷺の美」は姫路城から始る。

柳橋水車図屏風>
173:「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」:「郊外でデートするときっと楽しいぞ」

狩野秀頼筆<高雄観楓図屏風>と狩野長信<花下遊楽図屏風>
181:17世紀初頭とは、贅沢が”構築”から浪費へと向かう過渡期。
182:秀吉以前の貴人は「花見」には行かない。平安時代花見を「花の宴」と言ったが、これは邸の庭に咲く桜を眺める。花の季節に外に行かない訳ではないが、外出の名目は花見ではなく「寺社詣で」。
184:「舞う」から「踊る」
186:<高雄観楓図屏風>の「浄土に通じる橋」は「神護寺へ続く橋」:北野大茶の湯の先駆けともなる「秋の紅葉の中で茶を飲み踊るピクニック」には、未だ、”宗教上の名目=寺社詣で”が必要
人間とは、どうやら「言い訳の中から立ち上がるもの」なのである。

彦根屏風>
192:遊楽では裸足:遊楽にふける人を描くのに履物を履かせるのは野暮だ!
196:クラシックな「立膝」:十二単の平安女性は韓国の「妓生」スタイル
198:女から来た手紙を読んでいる男の「過去の夢」:「ここに描かれるものは、全て彼の見ている”夢”である」、「彼の過ごした”楽しかった時間”が、現在との境目を持たずに、ここに描かれている」

岩佐又兵衛筆<豊国祭礼図屏風>

<松浦屏風>
216:風俗(ふぞく)=「平安貴族の世界から見た、異質な東国の人間達のあり方の奇異」
仏典には「遊女=売春婦」がやたらと登場する。古代インドでは悩むべき女は売春婦で、だからこそ彼女達はブッダの教えに帰依するのであるが、古代のインドの経典が中国語に訳される時に唯の「女」に変えられた。
222:<松浦屏風>のタイトルは作品の形状も内容も語らず、その伝来だけを語る。<小倉色紙>のそれと同じ。

本阿弥光悦作<白楽茶碗 銘不二山>
229:「美術品」も昔は「実用品」だった筈:
千利休の「呂宋の壺」→利休が美術品として高く評価したルソンの壺は、現地の安い便器代わりのものだった。
犬養道子によると知り合いの外人は日本の古美術商(?)から入手した漆塗りに金細工の「位牌」を見せられ、黒漆塗りに金蒔絵の「オマル」を素晴らしい「サラダボール」として食事に出されたという。

狩野山雪筆<老梅図襖>
242:スネて”前衛”になる。その最初の例が京狩野の狩野山雪

<誰が袖屏風>
254:日本人の底力とは「どんなものでも、飾り方次第で立派に飾れる」というデザイン処理能力で、その能力を失い「飾るべき価値ある物」などとつまらぬ信仰に走った時、日本人のセンスは最悪になる。