絶望の精神史
84:(明治も末になると)女は処女であることが要求された。正式の結婚をした以外、男女の交渉は不義いたずらという観念が下に敷かれていた。三浦半島の漁村で、水死人があるときくと、若い衆は、歓呼して小舟をこぎよせ、若い女の死体があれば、陸にひきあげて、その屍を輪姦し、男の死体であれば、舌打ちして突き戻す。心中ものの二つしばられた死体は、紐をほどいて女だけをつれもどる。輪姦の途中で女が蘇生することもあった。死体に対しての冒涜とは考えず、情死や自殺を悪と考えるところから出発した行為で、懲戒の意味まで含まれていた。
97:人買いにさらわれ、身を売られて、散々な目に遭う女たちの惨めさよりも、土地の風習や、家の決まりで、女の性器を酷使させて、一家の支えにする仕組みに、甘んじて従う女たちの方が、痛ましくないとは言い切れない。
129:(大正の震災)流言蜚語が伝わるたびに、一も二もなく、それを信じて、また振りまき、「多摩川から朝鮮人暴徒が大挙襲撃してくる。」とか、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んで歩いている。」とか、「社会主義者が蜂起した。」とか聞くたびに、事の事態を考慮する余裕のある者はなく、青竹をそいで、先を火であぶった竹槍をもったり、腰に日本刀をさしたりして、交代で町を警戒した。そして、往来の者を誰何し、髪の長い若者はは社会主義者、言葉ずかいのはっきりしないのは鮮人ときめつけ、どどいつやさのさ節を歌わせて試したりした。日頃愛想のいい小心者の理髪店の主人が性格一変して言葉遣いも暴慢に指図しまわったり、髪結いの亭主が、急に狂人じみて「ぶんなぐれ、殺せ」などと、矯激なこと口走ったりするものだった。
流言を取り締まるビラを出しながら、巡査までが常軌を失って、「朝鮮人は目黒あたりまで来てあばれている。しっかりやれ。」などと激励していった。砂村で三人、竹槍で刺してきたと、英雄気どりでふれて通る、土建屋ふうの男もいた。青白いインテリ青年を安全なところへ連れてゆくのを引き受けて2人で歩いていると、橋のたもとから五十かっこうの和服の男に「社会主義者だな。きさまのような奴がいるから、いかんのだ。」と叫び棍棒で殴りかかって来た。
・マレイのアモック
155:昭和初期の国民は軍から心が離れていた。
165:北京の清水安三、上海の内山完造:中国を愛する動機からで、日本の国を背負ってしたことではない。
172:昭和13年北中国一帯で大洪水があり、洪水が引く間がないうちに底まで結氷し、河北は、村も畑も、三十メートルもの氷塊の下敷きになった。この凶事の前に、既に、部落はつぎつぎに日本兵の劫略にあい、人妻、娘のけじめなく広場に引きずり出され、夫や父や子どもたちを数珠つなぎに立たせた目の前で犯された。日本兵は、男どもを一列に並べたままで、銃弾が、何人貫くことができるかを試しあって楽しんだ。
(山西を占拠した皇軍軍属から聞いた)スパイの容疑で尋問中に一言も喋らないので直ちに銃殺と決定された娘の容色を惜しんだ部隊長が。自分の意にならないので、娘の股間にダイナマイトを挿して爆死させるよう部下に命じた。その娘は良家の娘で聾唖者だった。
175:このような無規律の原因は、軍指導者の腐敗にあった。部隊長たちは、城地を占領するなり、王侯の楽しみに溺れて動こうとしない。戦地は膠着状態となる。
宣伝班たちは、内地からの視察団が戦跡巡りをさせるコースも決めていた。手に手榴弾を持って振り上げた、何人かの中国女兵が、枯草のなかで凍りついたまま死体になっていたのは、とりわけ評判のいい見せ物になって。しきりに、人々の話題になっていた。
177:天津の喫茶店で、若い男女の休んでいるところへ、前線帰りの兵士たちが入ってきて、理由もなしに、いきなり銃剣で男を刺殺した事件があったが、「そういう兵士はいない。」と軍からいわれて弱腰な領事館当局はは、泣き寝入りで引っ込んだ。
178:神戸から東京へ帰る列車で、(発狂した)復員将校がいきなり軍刀で、隣席者に切りつけたのを目撃したが、新聞には一行も報道されなかった。
186:総動員体制の限度まできたか、輸送船の遭難時の訓示に「働ける若者を先にして、役にたたない老人は遠慮して、死んでほしい。」と割り切った本音を言って人を驚かせた。
192:戦地帰りの一味や第三国人が倉庫を襲撃し門番を射殺して在庫品を持ち去っても、なかなか警察の手は届かなかった。
196:星亮の暗殺
199:絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。(略)人間が国をしょってあがいている間、平和など来るはずはなく・・・