ひらがな日本美術史 1

ひらがな日本美術史 1

ひらがな日本美術史1
21:弥生時代には「火炎土器」が無くなる:人の住む世界の至る所に神や霊が付着した時代が終わり、日常的だった「戦い」と「呪術」が「国家」に集約され、平明な時代が来る。民衆は「敵や霊」から離れて自分達の生活に向かった。
「飛鳥板蓋宮」までは板蓋は無い。
22:縄文から板蓋宮を通って仏教寺院の壮麗な建物に到るのが「漢意(からごころ)」、弥生から埴輪を通って「茶の湯、淋派、民芸」へと到るのは「大和魂(やまとごころ)」
24:銅鐸は「金ぴか」のベル:初めは振って鳴らしたが、巨大化して金屏風の如き飾り物と化す。
26:日本の土着信仰は偶像崇拝をしない。
28:日本人はわざわざ「自分達の神を像に刻んで拝む」という発想を持たなかった。「オオクニヌシ」もインド神話の神と結びついて、初めて「打ち出の小槌を持つ大黒様」になれた。
29:銅鐸は鈴ではあったが、楽器ではない。
37:中国式の「都」よりも「寺」の方が先に入って来た。
38:「どうして誰もこの寺を修理しないのですか?」
48:法隆寺釈迦三尊像は”北魏様式”:痩せた北魏美人からふくよかな唐美人に変化する。
49:「油」といえば、照明用の燃やすもので、食物を調理するものではなかった。
52:日本に油を使う調理法を伝えたのは中国から帰ってきた留学僧で、「仏教による肉食禁止」は、実は「神道による食文化の日本化」だった。日本で魚が肉ではないのは汚れを洗い流す水の中に棲むからである。
56:薬師如来坐像の銘は贋物:「薬師如来坐像」は「再建された法隆寺」、「釈迦三尊像」は「焼失した法隆寺」の本尊
57:「初めに仏としての存在があって、その後に人としての前世が創作された」のが、大乗仏教の諸仏である。
66:日本の男の美意識:「デブ」の下位に「筋骨」逞しいがあった。
84:「手習冊子」
120:「源氏物語絵巻」の美女は”幼形成熟
136:ストーリー・マンガのルーツは”絵巻物”
148:「夫専用の極楽」と「妻専用の極楽」:「観自在王院の跡」
149:「浄土庭園の中に立つ浄土式伽藍」とは大昔の「極楽テーマパーク」
150:貧しい中に生きている人間にとって、既に現実は十分に「苦しい」から「地獄に落ちるぞ!」と脅されても説得力はない。必要なのは「悔い改める」という”モラル”ではなく、「この現実の苦しさから救われる」という”救済”の方。つまり、「地獄」という教訓よりも「極楽」という救済の方が必要で、起源も「地獄」より「極楽」が古い。
157:河本家本<餓鬼草子>は享楽に飽満した人間達の潜在的なスカトロ趣味を描いたもの。
160:排便時に履いている高下駄は「共同利用」:小松茂美(『日本絵巻大成7』中央公論社
164:馬陰蔵相
170:密教以前は信者=善だが、密教は信者の中に悪を見てしまう。
171:空海は「胎蔵」「金剛」という別々に伝えられたインド製の密教を、初めて一つの体系にした。
179:平安時代の重ね色目は「赤+緑」が多い:「桃の色」=「(表が)桃の花のピンク+(裏が)桃の葉の緑」を美しいと感じた。「赤+緑=濁った灰色」とは考えず「葉の緑と花の赤がそっくりそのまま衣装の中に再現されている」という考え方をすることを選んだ。
180:「唐風文化の奈良時代」に「桜」は存在しない。桜の美学は中国の影響を払拭した後に日本人がオリジナルに発見した。
桜→「白+紫=水色」
182:「我々は、鎌倉時代になるまで、”たった一輪の美しい梅の花”でさえも、それを”美しい主役”として描こうとはしなかった」
184:鎌倉時代の彫刻がなぜ奈良の東大寺にあるのか?
190:定朝様式の仏像が存在する豪華な寺の内陣を私的空間として実感できた貴族だけが、容易に極楽浄土の存在を信じることが出来た。
209:美術史的に素晴らしい仏像とは「模索しながら創作する」ことで、この必須条件は「富」。


ひらがな日本美術史 2

ひらがな日本美術史 2

ひらがな日本美術史2
14:人間は”見たいもの”を作る。
20:歪んでいない真珠=ルネサンス VS 歪んだ真珠=バロック←何か過剰
22:鎌倉期を最後に日本から”彫刻”が姿を殆ど消す。西洋ルネサンスの300年前に、バロック彫刻様の人間の輝きを持って知っていた我々(日本人)は、精神性だけで色気のない”その先400年”を待つー「それが日本の中世」
31:戦う男と恋多き女:摂関期から蒙古襲来までの250年間から300年間の「絵巻物」の変化は”男の愚”から”女の愚”への変化でしかないかもしれない。
33:蒙古襲来の頃の鎌倉武士が”昔の戦争の絵=<平時物語絵巻>”を見ていたのは、”戦争の物語”が「その頃にできたから」
40:藤原氏の女から生まれなかったのは71代「後三条」唯一人、(息子の白河に譲位して直に斃れるが)この人が実質的に”院政”を創始する。
41:平安時代は”婿を採る”もので、「女の父」は婿となる「若い男」の世話をする。財産は父から娘に相続され、男は女の家に転がり込み、飽きたら他の女の家に行き、改めてその女の婿になる。これが当時の「結婚」。正妻・本妻という観念は無く、「嫁」という言葉さえ無い。この時代に「皇后」という唯一の「正妻」を持たされたのが天皇
「愛情というものが一夫一婦の制度を作った」のではなくて「一夫一婦という制度が愛情を作る」
42:摂関時代の崩壊と院政の始まりは、具体的には三条天皇の皇后となった藤原道長の娘(=けんし)が男子を産まずに女子=後三条天皇の母・禎子内親王を産んだことにある。
43:女をあてがう庇護者が消えた後にマザコン・ホモ・インテリたちが登場する。卑劣・野蛮・いかがわしいなど王朝貴族の仮面の下に隠されていた男たちの属性が一挙に”人間”という形を取って飛び出してくるのが、男たちの院政時代。
48:事件>物語>絵巻物
56:「蒙古襲来絵詞」蒙古軍兵士を十分魅力的に描いている。
59:「北野天神縁起絵巻」ぶっ飛ぶ貴族とチャーミングな鬼
66:「北野天神縁起絵巻」こそが鎌倉時代を代表する「大和絵の絵巻物」
69:<伝源頼朝像>の足は「ドラえもん」で稚拙でさえある。
78:新古今集歌人レベルは高い。
80:藤原定家筆<小倉色紙>:茶道が無かったら「へたくそな字」のまんまで埋もれていたかも?:100点もの、字が下手、貧乏な名門出、前衛で天才
85:変体仮名は200以上はあったろう。
90:写楽は”自分の見たまま”を描いていた。
91:花園天皇像<似絵>:”私のダメな部分が良く描かれている”:平安末期になって初めて「モデルになった人間に似ているかどうか」という考え方が登場する。<似絵>以前の肖像画は”立派”に描くものである。
99:<小柴垣草子絵巻>:詞書は後白河天皇が直接書いた。
105:当時の男達が知りたかったのは斎宮のアンダーヘアが「濃いかどうか」だった。
107:<稚児草子>:三島由紀夫が『禁色』で紹介して一躍有名に。醍醐寺では所蔵の事実さえ隠したいらしい。
109:稚児の肉体美
112:”やらせてあげる”立派な稚児の美談
116:『金瓶梅』を完読すると中国文学の専門家に「(そんなに忍耐強いのは)エライ」と言われる。
117:我々は「美しい肉体」と「立派な性欲」をなかなか一致させられないが、600年以上前の日本にはそれが一致してしまった”表現”があったのである。
133:<日月山水図屏風>「右から左にへ、時間が春から夏へ流れている」のは常識だが、”流れ出す大地”が描かれていても不思議ではない。
<日月山水図屏風>を描いた人間は「世界の崩壊」を恐がっていない。
145:自分の邸を<風景画>で飾った平安貴族は旅行はしない。「旅行=左遷」だった。
169:雪舟筆<破墨山水図>:「頂相」
171:雪舟は「撥墨」を「破墨」と取り違えた可能性がある。
173:雪舟は宋淵を戒めたのである。
176:雪舟は画僧で坊主社会の職業的画人。
188:龍安寺の石庭は広さが75坪の長方形の水盤に岩を生けた、萎れることなき”巨大な生花”
室町の花は「生ける」でなくて「立てる」
189:室町時代には腰に結ぶべき裳の結い方が解らなくなって、肩に結んで掛けた。
195:平安時代の「花瓶は庭」
216:牧谿もっけい)の描く”鳥”は恐い。
230:昔の婚姻で重要なのは”男女の仲”ではなく”古い男と新しい男の出会い”