旧約聖書の誕生

旧約聖書の誕生

旧約聖書の誕生
21:エジプト人は楽観、メソポタミヤ人は悲観:アトラ・ハシス叙事詩、エヌマ・エリシュの詩
23:1929年にウリガット(現シリア・ラシュ・シャムラ)の図書館が発見されて、カナンの雰囲気が解る様になる。
25:”聞けイスラエルよ、主は一つである。”先ず先に神が人に呼びかける。
47:YHWH = YaHWeH = ヤーヴェ:ADNY = ADoNaY の子音が YHWH に誤用されて→YaHoWaH = エホバ
52:出エジプト=奴隷の集団脱走が成功したこと自体が「奇跡」
64:子供に儀式の意味を尋ねられたらどう応じるかについてモーゼは繰り返し述べている(12・26-27,13・8-12,14-15)のは、出エジプトの緊迫した場面では、あまり現実的ではない。
101:祝福=良い事を言う、呪い=悪い事を言う。
104:モーセを介した契約では処理できないので、アブラハムに遡及された。
112:「人を助ける者」を人から取ったあばら「骨」から造った女=イブ:女を動物としていた時代だから革命的な考え(平等主義)だった。
120:智慧ある者が出現してから労働が苦しいものとなった。
121:聖書には相容れない立場が示されているが、この矛盾から聖書を拒否するのは、聖書が理解できなかったことを意味する。聖書にはさまざまな論理があると理解されることが求められている。
134:自然神崇拝=人が神を支配しようとする:バアルの預言者は自ら体を傷つけて血を流す。(エリヤ18・26-29)
146:「君を愛している」と宣言するのは相手が無価値・いい加減でも「相手を捨てない」と宣言していることになってしまう。
149:エロヒム資料では「神の畏れ」が中心的なテーマ
152:南王国ヨシヤ王(前7世紀後半)のときに子供犠牲を廃止する強硬措置がとられた。
162:どちらか一方が契約を破れば血が流れる
192:神が神殿にいるのは民が神殿に来る限りにおいてである。
200:神が望むのは肉の割礼ではなく心の割礼(エレミヤ4・4,9・24-25)
202:神との関係が「共同体」から「個人」へとなる傾向が現れている。(エレミヤ29-30節)
204:エレファンティネ島で軍事植民地:
209:祈りは神への感謝でしかあり得ない:人の側に願い事があるなどということは、人の側の錯覚でしかない。祈りの中心的意義が願い事の表明にあるのではないのは明らかである。
210:南王国末期の「神聖法集」=(レビ記17-26章)が捕囚後に増補されて「レビ記」になる。
216:イエス・キリストという「完全な捧げ物」を犠牲にして以来は不完全な犠牲を捧げる意味は無くなる。
229:魔術的意図で血を食べることが禁止されていると解釈されている。
233:聖書では「不浄」の状態は、必ずしも否定的で「悪」に関わる事ではなく、神の側に参与してしまっていることを指していることもある。
235:創世記1・28の場面は捕囚の状況にある祭司達の信仰を表している。
236:箱舟の構造はソロモン神殿
240:「哀歌」は「アクロスティック」:だから翻訳ではこの技法の姿を伝えるのは困難
246:性急な「同化政策」がアッシリアとアビロニアの滅亡の主因
247:分割統治はペルシャからの伝統:第二神殿再建のときサマリヤ人が協力を申し出たのをユダヤ人は断ってから険悪な仲になるが、ペルシャ当局側の関与もあった筈。
253:「律法」の作成は、ペルシャ当局の命令による。「70人訳」もプトレマイオス朝エジプトの権威に拠るところ大。
258:「天の神の律法」の宣布の儀式についてのネヘミヤ記8-10章の叙述で、一般の者の為に「翻訳」をする場面(ネヘミヤ8・8)はヘブライ語原本が「アラム語」に翻訳されたことを指す。
266:マラキは私の使者の一般表現で、個人名ではない。
279:サマリヤ人も「天の神の律法」を受け入れたが、アレキサンダー大王征服の時に両者は決別した。
280:ミドラシュとタルグム
289:メギロース
290:エリメレクの系図エズラの意図:ダビデに外国人の血を混ぜてみた。
293:ヨブ記は一種の演劇だと思えば理解しやすい。
308:大都市は避難所
309:コスモポリタニスムは異質な者達がお互いを認め合うメンタリティー
314:コスモポリタン的状況の中での「孤独」がユダヤ教を魅力あるものに見せた。
318:ギリシャ風スポーツ競技は全裸だったので、ユダヤ人の中には割礼の跡を消す手術を受ける者も少なくなかった。
329:ゼカリヤ1-8章は預言者ゼカリヤ、残りの9-14章は前3世紀ー前2世紀の「第二ゼカリヤ」
333:イエスが新しい「神殿」である はヨハネ福音の中心的な主張
341:ラビ・アキバ曰く”(聖書)文書は全て聖である。しかし、歌の歌(雅歌)は聖の聖である。”
348:「ユディット」の著者は故意に荒唐無稽な歴史的・地理的背景を設定している。
352:エステル記は「プリム祭」の謂れを説明する物語。モルデガイ=マルデゥーク、エステル=アシュタルテ
379:プトレマイス朝エジプト(ギリシャ語)当局に「70人訳」は提出されたからギリシャ語で書かれたのは当然:ギリシャ語しか解らないユダヤ人にとっても、アラム語しか解らないユダヤ人にとっても、ヘブライ語で書かれた聖書の朗読が解らないのは同じ様に存在していた筈。
388:聖書全体は「関係の言葉」である:伝えたい内容は言葉の文字通りの意味以外のことである。
428:Bible Works