山の宗教
11:江戸期には神社の経済的な実権は別当・神宮寺が握っており、神主は祝詞をあげるだけのあてがい扶持。
15:欽明天皇13年以前から熊野は開けていたが、『日本書紀編集委員会が仏教公伝後の14年に「吉野放光仏」
18:熊野神社:現在、全国3千社だが、宗教界の覇者であった全盛期にはこの10倍から20倍はあった。鎌倉期には沖縄に進出している。
21:『熊野之本地』で伽羅王千人目の女御がする「継子いじめ」でのインド批判から、中世日本人には日本をして大乗が成熟した「真の仏教国」と主張している。
25:浦島太郎の龍宮は変成男子龍女の成仏:『日本書紀万葉集、丹後風土記』の段階では「龍」は出てこない。「堤婆達多品」の娑羯羅(しゃがら)龍宮からで法華経由来である。法華経読むは苦行。
31:「補陀落渡海」は流すのではなく沈める:補陀落船を沖に曳航して船底の詮を抜く。
35:家津御子神(けつみこ)。若宮の「若」は祟る。
37:子守宮←籠もるお宮
38:飛鉢は従者が里に下りた。
39:熊野別当は女系相続
52:烏が出たら熊野の影響
54:羽黒修験が密教をやり法華経を読むと、密教弘法大師法華経は慈覚大師がやって来たことにして、開祖の中に加わえてしまう。
56:湯殿にのみミイラがある:湯殿は羽黒の配下になるのを嫌い真言宗寺院に残るが登山者の減少で財政的には困窮する。弘法大師の末流を証明する為にミイラまで造ったのである。
59:ハナ=賽銭:山伏は常磐木より生活の糧(金)が欲しいのである。
61:月山の祖霊社:明治に一度禁止されたことがあるが、納骨を受付る。
65:一世行人:清僧
89:奈良時代が山の頂を踏むようになった最初の時代。
91:童子=召使
102:日光修験の成れの果て:「延年、強飯式」に残存
106:「寂光寺釘抜念仏縁起」
110:山伏文学には非常に同性愛が多い。
118:黒駒太子:亡霊は富士山に行く。
119:役行者は地面からは飛べなかった:崖などの高所から鳳凰の如く飛ぶ。
124:食行身禄新田次郎『富士に死す』に詳しく描かれている。
133:山の祀り方は色々とあったろうが、奈良時代に仏教をもって祀るようになったのが神仏習合の実態。
135:『神道集』は半分はインドの話として語られる:10世紀頃インドでは密教(金剛場経)化して仏教が滅び、インドが真に仏教が行われていなかったのを鎌倉期の日本人は主張した。
166:富山には立山修験から配置売薬が始ったとの研究もある。
170:修験の歴史は内部抗争で滅んで終わる。:山伏は妥協しない。
172:求聞持法:
178:ククル=糸を染める
186:僧兵という言葉は日本史上には無い:南都の僧兵や叡山の僧兵などは明治になってから歴史家が命名したもので、もとは夏衆あるいは堂衆と呼ばれた者たち。
198:江戸期の諸山法度「学問専一たるべし」
205:賽銭を上げるは自分の罪を賽銭に託して上げて祓ってもらうこと。
207:出雲大社はかつて奥の院「浮浪山鰐淵寺」の支配下にあった。
209:江戸期には山伏の妻が「巫女」であるという例は多い。
214:「忌明け参り」は「四十九日」のちょうどその日に参る。
226:インド人は足跡さえ描いておけば、その上に目には見えぬ仏を想像したが、ギリシャ人は仏像を造らないと納得できなかった。
250:辺路をめぐる:海浜の路、海岸を巡る「海の修験」の修行方式が遍路。
268:得物を十字に重ね合わせる×(バッテン)は悪魔祓いの印
273:池坊=六角堂の供花をする山伏
276:富士の人穴も納骨された様