熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

熊野詣
77:親鸞の”賀茂川にイレテ魚にアタフベシ”は水葬儀礼+施し
25:1163年「長寛勘文」:伊勢と熊野は同体に非ず。
40:墓に祀る「死霊」の浄化されたものが寺で祀る「祖霊」、祖霊の昇華したものが「神霊」として神社に祀られた霊魂昇華説は、民俗学や宗教学では疑うもののない仮説。江戸時代の偏狭な国粋主義神道学者が、死霊・祖霊を祀る仏教と神霊のみを祀る惟神道(かんながらのみち)とを分けた為に、今この昇華説は常識として受け入れられていないが、山ノ神・火の神・地神・屋敷神・柴神・藪神・ヤボサ神・小一郎神など低級な叢祠には死霊から祖霊、神霊への中間段階的民俗信仰の残滓がある。
45:わが国で葬を「はふる=放る」、墓を「すたへ=棄処」というのは風葬を意味し、たとえ貴族でも高塚墳墓に斂葬(れんそう)するまでの殯(もがり)も明らかに風葬。中国古代の殯(ひん)は二度葬の第一次葬らしいが、日本の「もがり」は土中に埋めた形跡はは無い。
54:熊野比丘尼時宗が熊野の勧進権を握った結果、尼時衆か、山伏の妻(巫女)を勧進にくりだした。絵解きの説教や歌念仏の内容でなく、美貌・美声で男の気を引く末路が歌比丘尼・売比丘尼としての「円頂の遊女」
58:修験道全盛のなかでは死者信仰を主体とする妙法山は那智信仰から異端視され高野聖と同じく妙法山の念仏聖も賤視されるようになる。
70:姥捨伝説と補駝落渡海:補駝落渡海が水葬か捨身かは難しいが、姥捨伝説が風葬か棄老かについての決定は簡単である。すなわち「おはつせ」または「はつせ」が大和の「隠国の初瀬(こもくりのはつせ)」と同じ死者の国の風葬であり、姥捨伝説は「宝積経」や「大和物語」に見える印度の棄老説話の翻案であると断定できる。しかし、補駝落渡海には古代葬法の水葬から、中世浄土教の入水往生への変化が考えられる。
83:拝観料:荘園を武士に押領された寺社や貴族はその代替財源を弱い旅行者に転嫁する。
84:十一文の関銭
109:熊野権現:「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」
111:熊野の唱導に従事した時宗聖が「らい者」救済をテーマにして時宗と熊野を宣伝したのが「小栗の判官」
124:1185年当時熊野水軍は最強
173:南北朝の頃、湯の峯温泉を時宗が支配した。
175:蓮華王院三十三間堂は熊野御幸の所産:熊野山伏の舌先から産まれた。