廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち (みやざき文庫20)

廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち (みやざき文庫20)

廃仏毀釈百年
P27:「くらげなすただよへる」ー『三五暦記』、『淮南子』からの借用。
P29:『延喜格式』60巻は927年完成、「格」は散逸、「式」50巻は現存。
P38:古代日本には部族長の「上」はあったが、神格化された「神」の観念は無い。
P40:「神祇官」が定められた「延喜(格)式」よりも300年前の推古13年(605)には、僧官が設けられて「大宝(律)令」に制定されている。
P41:竹生島弁天事件、山田権大属
P46:「三武一宗の法難」
P47:武帝は未来記=讖緯(しんい)を信じて僧侶に黒衣を禁じ黄衣を着用させた。
P48:「通道観」学士の服装が「衣冠笏履」で日本神職の服装はこれを模範とした。
P50:山崎闇斎
P52:本居宣長自身は浄土門信者で廃物思想無し。
P55:倒幕には、「生産力=農・工・商」を手中にする為に、寺の「人別帳」を奪うのが必須であった。
P57:平田篤胤本居宣長没後2年の享和三年まで、宣長著作はもちろん宣長という名前さえ知らない。
P58:宣長の嫡子本居春庭に宛てた入門願いには”夢ながら師弟約申し上げ候”と「夢の中で死んだ宣長と対面し師弟関係を結んだ」と言っているだけで、篤胤が著述のいたるところで「わが師本居負翁」と書き読者に勘違いさせている。文政6年(1823)に宣長の養子で学問の後継者である本居大平を訪ね宣長の仏壇にあった宣長手作りの「笏」の様な物を一つ貰い受けて、自身こそ後継者と自認するなど常軌を外れている。
P59:屋代弘賢と偽称し、水戸史館仕推挙の口上書を送る。藤田東湖は手紙(天保5年、彰考館総裁会沢安宛)の中で平田篤胤を「怪妄浮誕」の人物と評している。天保8年に書いた『天朝無窮暦』が問題となり、幕府から著述禁止を申し渡される。没した時の門人は553名。
P63:「出定笑語」三巻、「出定笑語附録」二巻、「神敵二宗論」は俗談平易な表現で面白く一般民衆に受けた。
P64:浄土宗説教僧で『醒睡笑』を著した安楽庵策伝が日本落語の元祖
P71:光圀像碑文「神儒を尊んで神儒を駁し、仏老を崇めて仏老を排す」
P77:”殺人を犯しても「自葬」であれば露見しない”という不道徳的風潮が出る。
P79:天保14年(1843)秋に家康の霊廟を許可無く、唯一神道に改めたのが幕府への反逆と認定された。
P84:水戸藩寺社奉行今井惟典
P85:弘化元年(1844)5月6日幕府が水戸藩徳川斉昭に隠居謹慎を命じた罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照三所権現神道化したこと」(『不膃録』意)
P91:耳塚:島津義弘は斬首した片方の耳を切り取って高野山に供養した。
P106:本願寺が宗名変更を願い出て、寛政元(1789)3月、輪王寺宮から得た「三万日御預け」の申し渡しより、3万日後の明治5年3月14日に浄土真宗と公称するに至るまで、世間には「一向宗」と呼ばれていた。
P112:薩摩の一向宗弾圧は明治10年頃まで続く。
P122:現代でも清武地方の田舎に行くと、神道者は死者のあたり日の祭りを「法事」、神社に参るのを「てらまいり」、神社へのお供えを「仏性米(ぶっしょまい)」と言う。また、近隣の浄土真宗門徒報恩講の名を避けて「おかがき講」と名づけて仏事を営む集落もある。
P132:神仏判然令:「社」は僧侶開基の仏社、菩薩号廃止の令:阿弥陀仏随行の別名
P134:仏教を守護する諸天神を祭る社が寺院境内にあるのであって、これらは「カムナガラの神」ではない、社殿は仏教渡来以前には無い。
稚児行列は「菩薩の行道」を意味する。
P136:伊勢の度会府は還俗しなければ廃寺と威嚇した。
P138:「宮」は仏典や漢籍から由来、仏界の楼閣を表現するとき宮殿・楼観という。「八幡」は阿弥陀仏の三昧耶
P139:唐代玄宗皇帝隆基の別号が神武皇帝(挿神記)
P138:勅願寺宇佐八幡宮弥勒
P143:石清水八幡宮護国寺
P145:鶴岡八幡宮:僧侶と神主・社人との抗争無しに廃仏に移行できた。
P150:金毘羅大権現金刀比羅宮阿弥陀堂→若比売社、観音堂→大年社、薬師堂→旭社、不動明王津嶋神社、摩利支天堂・毘沙門堂常磐神社・日子神社、孔雀堂→天満宮、多宝塔は明治3年6月に破却、万灯堂→火産霊社、大行事堂→産須毘社、行者堂は明治5年破却、山神社→(?)大山祇社、大物主神が祀られた古記録は無い。
P153:竹生島弁才天妙覚院:竹生島弁才天→都久夫須麻神社、弁才天を浅井姫命とデッチアゲタ
P155:稲荷大明神:ダキニ天から救われる法が「真言密教
P156:鳥居はインド仏教のもの:中国で鳥居伝説が生まれ渡来、もとは「華表」といい仏・菩薩の示現の聖域をシンボライズするもの、神道の所産に非ず。『国語大辞典』の「神に鶏を供えたとまり木」は明治の改竄がそのまま残存している例。大阪天王寺には南面に「華表」、下関市長府町功山寺、大分国東地方の寺院、富貴寺には「鳥居」がある。愛知県三河豊川稲荷妙厳寺曹洞宗)は唯一の「稲荷寺院」として残っている。
P159:興福寺五重塔から「金具を取る目的」で、政府から25円で買い取った買主は、解体費用を惜しみ塔に火を点けて金具の回収を企画したが、付近町家から類焼危惧の抗議を受けて断念した。
P159:京の四条大橋は「仏具(銅)」で作られている。明治7年3月竣工、経費16830円は祇園遊郭が負担(『仏教史学』第2編第1号)
P161:明治4年9月天皇皇族の信仰対象であった宮中の仏具・仏舎・経典は天皇家菩提寺泉涌寺に遷し、宮中では皇霊を祀ることになる。
P162:金峰寺にある日本最古の鉄の鳥居には「吉野なる鉄の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」の讃仏歌が刻まれている。
水天宮は祭伸をインドの水神(龍神)から安徳天皇にされた。京都八坂感神院祇園社→八坂神社。
法隆寺は聖徳神社、高野山は弘法神社、成田不動尊も「不動尊(うごかずのみこと)」という神を祭っている神社にされそうになった(らしい)。
P167:1865年、島津久光「時勢切迫の折、若い僧侶は兵役、老僧は教員、寺院の禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士貧窮者に与える」
廃した寺院1066、僧侶還俗2964人
P168:明治2年正月、伊地知正治大久保利通宛書簡に「西郷入道先生も既に四五十日、日当山湯治、犬四五匹、壮士三四人同道の由云々」と西郷隆盛は僧形をしている。島津久光廃仏毀釈に抗議してのことか?
P184:池上山伊万福寺
P192:榎原山地福寺
P194:終戦神社庁から、神社で保管する書類の焼却処分令が出ている?。
鵜戸山仁王護国寺:山(号)を→様と変え「さん」と読ませる。
P202:談義所ものがたり:中本山春日山願成就寺・談義所住職の「いりこ餅」
P208:青島弁才天
盤戸寺(岩戸寺)
報恩寺
安国寺
真金山法華嶽寺
宮崎神宮と伊満福寺
P240:廃仏毀釈をの難を逃れた仏像が大日様、大将軍様田の神、水の神と村の地蔵堂に祀られている「かくれ信仰」を神道由来の土着民俗と吹聴する者がある。
霧島岑大権現
正応寺:
P251:慶応4年11月15日、古来五節会の一つたる仏式の新嘗会(しんじょうえ)を新嘗祭と改称。鹿児島の即製神社では銅鏡を急造して配り御神体とした。全国がこれに倣い、今の神社の伝古鏡と言われる物の大部分はこのときの製品。
P262:1937年調査で176045社、戦後神社本庁調査で稲荷系32000社、八幡系25000社、天満天神系14401社、厳島系8500社、諏訪明神系5073社、日吉権現系3799社、熊野権現系3079社、金毘羅系683社、その他80000社に神職20000人
P263:全国各地に無数に散在するホコラやお守り札等を民俗信仰などと言うのは見当違いで、これらの殆どは明治の廃仏毀釈による寺院またはその信仰の変貌したもの。
P290:927年『延喜式』の神名帳にある宮崎県下の社は「4社」だが、廃仏毀釈後には「516社」になる。
P293:明治2年2月28日行政官布告ー寺院堂上から菊紋章を使用させない禁令:門跡寺院から紋章を取り上げた。
P296:明治4年12月22日神祇省告諭ー神宮大宮司をして神宮大麻を頒布させる:大麻は伊勢外宮の御師や浄土僧によって頒布されていたのを国家が取り上げて、全国に半強制する。明治5年5月10日に神宮が扱う。
P301:明治6年7月6日太政官布告253号ー火葬の禁止:仏教式荼毘の禁止
P321:昭和17年日蓮主義仏立講、神宮大麻の拒否を決定、不敬罪に問われ幹部逮捕
P324:「神仏習合」、「神仏混淆」は維新政府の造語
P325:本地垂迹は正しく言えば「本迹二門」で、『妙法蓮華経』の解釈に2通りの義を立てて、この経を味わうこと。一般に大乗仏教では、久遠実成の法身仏と印度ガヤ成道の釈迦牟尼仏即ち応身仏との関係を語るもの。
P327:伊勢宮を維持してきたのは伊勢尼寺慶光院で、伊勢遷宮の中心となっていた。
P328:讃岐の金毘羅大権現安芸の宮島厳島大明神、石清水八幡等々の開祖は「僧侶」。明治の廃仏者は、行基・伝教・弘法が神社を奪い取ったと唱えて民衆を扇動したが、太古には「社」は無い。
P330:明治天皇崩御のとき「朕が一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである」(『松島善海師談』)
P332:維新以前の庶民の結婚式は「仏式」といえる。
P335:雅楽は仏徳を讃嘆する「宮・商・角・緻・羽」の5段階音によるインド仏教由来→中国経由の音楽。大嘗会・新嘗会・大法会・常楽会・放生会・舎利会等の仏教儀式でで演奏された。
P340:トリイに鳥居・鶏栖・華表・華極の字を当てるのは夫々の起源的意味を語っている。一般に鳥居と呼ぶに至った起源は、晋の陶潜の『挿神後記』巻上に
「丁令威は本(も)と遼東の人、道を霊虚山に学び、後鶴に化して遼に帰り、城門の華表柱にとまる。時に少年あり、弓を挙げて之を射んと欲す。鶴すなわち飛びて空中に徘徊し、而して言って曰はく『鳥あり鳥あり、丁令威なり。家を去ること千年にして今始めて帰る。城郭故(もと)の如くにして人民非なり。何ゾ仙を学ばずして塚累々たるや』と、遂に高く上りて天に冲す」
とあり、これは丁令威が仙術を学んで後、鶴に化けて城門の華表柱にとまったといので、その後、華表のことを鳥居と呼ぶようになった起源を示す典拠。
肉親死後四十九日の間や僧侶・穢多非人・不浄の者は鳥居をくぐらないは明治時代に加えられた迷信。
P341:拍手は「歓喜拍掌」が由来で三回する。
[文献]
阪本健一『明治維新神道』、重松明久『日本神話の謎を解く』、圭室文雄『神仏分離』、『神仏分離史料(名著出版)』全五、『日本宗教ものしり100』、『倭名類聚鈔(風間書房)』、『史籍雑簒(国書刊行会)』、『西郷隆盛のすべて』、『平田篤胤中央公論社)』、原田敏明『神社』、『カヤカベかくれ念仏(法蔵館龍谷大学宗教調査班編)』、桃園恵真『さつまの「かくれ念仏」』、山田済斎編『西郷南州訓』、西田長男『神道史の研究』、青木紀元編『祝詞
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1185.html