早川孝太郎全集1「花祭」前編
P38:神道花ー仏花と言う区別は近世の一部神道家により成立した新形式。在来の形式を仏教者の作為で祭りの意義を具えぬとし、新たに創作したのが「神道花」。伝統に無理解な抽象論から出発したもので根拠は無い。振草系の中設楽が採用すると、三輪村奈根、大入系では豊根村間黒、坂字場と都合3村が追従した。
P48:老人ほど過去を言う場合、祭りを基準にして、いつの年の祭りの前とか後という言葉が口を衝いて出る。祭りを終えて新年を迎える。
P70:注連縄、ざぜち、おはた(御幡)、笹と榊、はつはし(八橋)、ゆぶた(湯蓋)、びゃっけ=びゃっかい(白蓋)、
P142:逆足を五印に踏む
P270:”ぎこちない、下品なところに、かえって古い面影も窺われ、・・・・厳粛味を欠いているから、本来の意義を忘れたろうの、型が崩れたためと即断したものが、かえって以前の姿を多く伝えているかも知れぬ。”
P327:花祭り禰宜→宮太夫、花禰宜、花太夫、先達、大禰宜=鍵取り、副禰宜=幣取り
「みょうど」系(すじ):狂言系(すじ)に通じるものがある。
P355:「せいと(庭燎)」の客の悪態文句:”やいそこのめんばを被った爺”、”文句をごまかすと承知せんぞ”、”爺しっかり摺古木を叩け”
P471:「祭礼花神楽伝記」は祭祀改革の趣意書、「花祭神楽祝事」は在来の「花のほんげ」祭文に代わる祭祀の根本由来を説いたもの。中設楽の祭祀は寛政年間に鍛冶職千代吉が古戸(ふっと)から伝えたもので、同時にそれまで行われていた「田楽」を廃して隣村足込に譲ったとの言伝えがある。その後、明治維新に会して、世相動揺のさいに当時郷社槻(つき)神社の祠官であった三高文治氏を中心に、在来の形式を改革、新法を編んだものであった。中設楽部落の菩提所曹洞宗東泉寺住職は、須弥壇を一夜にして御霊屋に変えた頃の世相では、祭祀改革には禰宜も進んで応じるしか道は無かった。
P481:古くは陰暦霜月の行事、神下しと神上げが中心、それに多くの舞が結びついている。来臨する神は鬼で表現し、鬼がヘンベ(反閇)を踏んで悪霊を抑え、新年の豊作や幸福が約束される。
P499:立願舞の変遷を見ると、祭祀組織が特権的宮座から次第に部落全体を氏子とする祭祀組織へ変化したと見ることができる。祭祀組織の変化は部落生活の変化と対応する。