定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)

定本 想像の共同体
P23:トム・ネアン「Nは、個人における神経症と同様、近代発展史の不可避の病理であり、・・・やがては痴呆症へと陥っていくものであって、広く世界に蔓延した無力感のジレンマに巣くった社会小児病とも言うべき殆ど不治の病である」
国民と国民主義は「自由主義ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族や宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単。
ルナン「国民の本質とは、全ての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをお互いすっかり忘れてしまっているということにある。」
ゲルナー「Nは国民の自意識の覚醒ではない。Nは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」
宗教共同体、王国、N
P37:ペドロ・フェルミン・デ・バルガス「蛮人に関する政策」ー”我が農業の拡大のためには、我がインディオのスペイン化が肝要である。・・・白人の雑婚を進め、貢納その他の義務から彼等を解放すると宣言し、土地の私有を認めることによって、インディオの絶滅を計る事が望ましい。”ー彼の時代の宇宙観ではインディオも他の全ての人と同様に救済可能。
P39:文人が俗語とラテン語を仲介することによって地上と天上を仲介する世界観念。
P43:ラテン語の没落は聖なる共同体が徐々に分裂し、複雑化し、領土化していくという過程を例証していた。
11世紀以来「イングランド人」王朝が支配したことなど1度もない。
P46:フリードリヒ大王の軍隊は圧倒的に「外国人」であったが、ウィルヘルム3世時代には、全く「プロシア国民」だけからなっていた。
P48:12世紀の年代記フライジング司教オットーは「この世の終わりに巡りあわせた我々」と繰り返した。
『ノリ・メ・タンヘレ』
P65:(4)ジャワ王ディポヌゴロ自身の回想記では、彼が「オランダ人」を追い出そうとしたというより、ジャワを解放ではなく「征服」しようとしたのが示されている。彼は明らかに、集合としての「オランダ人」の概念を全く持っていなかった。
P77:広汎に存在していても層の薄い「ラテン語読書人」向け市場が飽和するのに150年かかった。
P78:古典古代文藝復興され・・・彼等はキケロのラテン散文を模範とするようになり、そのラテン語は教会と日常の生活から離れて、中世教会ラテン語とは全く異なる秘儀的性格を持つようになった。従来のラテン語は、その主題や文体の故に秘儀的だったのではなく、「ただ書かれて」いたから、つまり、「テキスト」としてのその地位の故に秘儀的だった。しかし、いまでは、なにが書かれているかによって、つまり言語それ自体によって、秘儀的となったのである。
P79:ルターは名の通った最初のベストセラー作家。その名で新著を「売る」ことのできる最初の著作家
プロテスタンティズムが、資本主義により創造された俗語出版市場を利用したのに対し、反宗教改革ラテン語の砦を守ろうとした。→これを象徴するのがバチカン禁書目録
P80:西欧中世にはラテン語の普遍性に対応する普遍的な政治システムが存在しなかった。
P81:「イングランド」の例→アングロサクソン語→ラテン語→ノルマン・フランス語→初期英語、これは「国家」の言語の推移であって、「国民」の言語のそれではない。・・・圧倒的多数の被支配住民は、ラテン語もノルマン・フランス語も初期英語も殆ど知らなかった。
18世紀ロマノフ宮廷の言語はフランス語とドイツ語。
P82:それまで言語の選択は、・・・19世紀になって、敵対的民衆的言語ナショナリズムの高揚に直面した君主が追及した自覚的な言語政策とはは異なり・・・旧行政言語がまさにただの行政語、つまり、官吏が自らの便宜のために使用する言語だったことである。そこには、この言語を様々な臣民に体系的に押し付けるという思想は存在しなかった。
P83:・・・親縁関係にある俗語の「組立て」に資本主義ほど貢献したものもなかった。
P84:写字生の作為(くせ)から、12世紀の仏語は15世紀にビィヨンの書いた仏語と際立って異なっていたのに対し、印刷本登場以降の16世紀には、変化の速度は決定的に鈍化した。・・・我々には17世紀の言葉が判るが、ビィヨンにとって12世紀の彼の先祖の言葉は判らなかった。
P85:出版語の固定化と口語間の地位分化が、本来、資本主義、技術、人間の言語的多様性の爆発的相互作用が生み出した多分に「無自覚的な過程」であったということである。・・・今日、タイ政府は、山岳少数民が何語を話すかには殆ど無関心でありながら、外国人宣教師が山岳少数民に彼等独自の表記法を与えたり、彼等自身の言語による出版活動を育成したりすることを積極的に阻止している。
アタチュルクは広範なイスラム的一体感を犠牲として、トルコ人国民意識を涵養するため、ローマ字表記を強制的に導入した。
P86:人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本形態において、近代国民登場の舞台を準備した。これら共同体の潜在的広がりは本来的に限られたものであり、しかも同時に、既存の政治的境界とは、極めて偶然的な関係をもつに過ぎなかった。
P89:(19)いまでもなお出版界には巨大多国籍企業は存在しない。
P93:スペイン領アメリカ最初の小説は1816年の出版で、それは独立戦争の後のこと。・・・独立戦争のリーダーシップは多数の大地主と彼等と同盟した少数の商人、諸々の専門的職業者に掌握されていて、独立に拍車をかけた要因は「下層階級」の政治的動因、すなわち「奴隷反乱への恐怖」であった。
ボリーバル「黒人の反乱はスペインの侵略より千倍も始末が悪い」
P97:「南アメリカの新生共和国が、かつてはそれぞれ、16世紀から18世紀にかけて行政上の単位であった」
P99:古い想像の宗教共同体の外縁は、人々がどこに巡礼をするかによって決定されたのだった。
P105:「たとえ純粋の白人の両親から生まれたとしても、クレオールは幼児期、インド人乳母の乳を飲み、その血は一生穢れてしまっている」ーゴアのフランシスコ会修道士、・・・「未開野蛮の西半球で生まれたクレオールは本国人と生来的に異なり、そして劣っている、従って高位高官には不適格である」、と便宜的、通俗的な結論を引き出すのはしごく簡単なことだった。
P107:18世紀北米では、印刷業者自身が、通常、新聞の主要な、ときには唯一の寄稿者でもあった。
P127:1830年代「ブルガリア人」がセルビア人、クロアティア人と同一国民と広く考えられていたが、1878年に別個の存在として成立した。
18世紀、フィンランドの国家語はスウェーデン語でで、1809年官製語がロシア語となるが、18世紀後半にフィン族の過去への関心の「目覚め」が1820年代にフィン語。
長くデンマーク人と文語を共有していたノルウェーは1848年に文法書、1850年に辞書と共にNが出現した。
P130:1840年代欧州での「読書階級」とは、貴族と郷紳、廷臣と聖職者に加え、庶民出身の下級官吏、専門職業者、商業・産業ブルジョワジーなどの勃興しつつある中産階級
P132:世界史的観点からすればブルジョワジーは、本質的に想像を基礎として連帯を達成した最初の階級であった。
”人は誰とでも寝ることができるけれども、ある人々の言語しか読むことはできない”
P142:(35)19世紀始め、マジャール人大貴族はフランス語かドイツ語を話し、中小貴族はマジャール語ばかりか、スロヴァキア語、セルビア語、ルーマニア語、口後ドイツ語まじりの酷いラテン語で会話した。
P146:19世紀半ばまでに、全ての君主が国家語としてどこかの俗語を採用し(4)、・・・国民的理念の威信が高まるにつれ、欧州・地中海域の君主らは、国民的帰属という誘いににじり寄る。ロマノフ家は自身が大ロシア人、ハノーヴァー家はイギリス人、ホーエンツォレルン家はドイツ人であることを「発見」した。そしてその従兄弟たちは、もっと無理をしながら、ルーマニア人やギリシャ人、その他になっていった。・・・君主は国民国家の「第一の国民」となっとと同時に「同胞に対する裏切り者」ともなりうることを認めた。レザー・パフラビー→ガリバルディの映画(5)
欧州諸君主の「帰化」が「公定ナショナリズム」(6)と呼ぶ現象をもたらす。好例→帝政ロシア
P148:19世紀の「ロシア化」は自覚的なマキアヴェリ主義から出発したのに対して、16世紀スペインの征服は「スペイン化」ではなく異教徒や蛮人の改宗に過ぎない。
18世紀サンクト・ペテルブルグの宮廷語はフランス語、地方貴族の多くはドイツ語を話した。
P149:1905年革命は・・・専制に対する革命であったばかりでなく、「非ロシア人のロシア化に対する革命」でもあった。・・・社会革命は、ポーランド人労働者、ラトヴィア人農民、グルジア人農民を主役として、非ロシア地域で最も激烈であった。
P153:「インド」はヴィクトリア女王即位の20年後に「英領」になった。それまで商事会社の支配下にあったのである。
P159:明治維新の権力掌握者は収奪した余剰を日本国外に持ち出す誘惑に陥ることもなかった。
P165:ワチラウットはアジアのブルボン朝で、国民時代前に彼の先祖たちは魅力的な中国人の娘を喜んで妻妾とし、タイ人より中国人の「血」の方が濃かった。これは、「公定N」の性格を示す好例である。公定Nは共同体が国民的に想像されるようになるに従って、その周辺に追いやられるか、排除されるかの脅威に直面した支配集団が、「予防措置として採用」する戦略なのだ。
P174:「公定N」は民衆の想像の共同体から排斥または周辺化される危機に直面した権力集団(主として王朝、貴族)による応戦。
「バルマク家の饗宴」
P176:ハノーヴァー家はWW1で反独感情が高まる中いかにも生粋の英国風の名前「ウィンザー家」に改名した。
P184:オランダ領東インドは大植民地時代の中で非欧州語の「インドネシア語」が国家語に留まった唯一の例。一会社の支配であることと、彼等オランダの言語と分化が欧州の他のそれに比肩しうるブランドであると自負する自身がなかったことによる。
P194:マグナ・カルタをジョン・プランタジネットに強制した貴族たちは「英語」を話さず、自らを「英国人」と観念することもなかった。しかし、それから700年後、連合王国の教室では、彼らははっきりと初期の愛国者と規定されたのである。
P201:「インドネシア」において植民地支配者が追及した教育政策は植民地住民とインドシナのすぐ外にある世界との既存の政治的・文化的紐帯を破壊すること。「カンボジア」と「ラオス」について言えば、その標的になったのは気の向いたときに宗主権を行使する「シャム」(低地ラオ族の言語と文化はタイ族と密接に繋がっている)
P202:コーチシナ語→「クォック・グ(国語)」
P210:ときにナショナリスト・イデオローグがやるように、言語を、国民というものの表象として、旗、衣装、民俗舞踊その他と同じように扱うというのは、常に間違いである。言語において、そんなことよりずっと重要なことはそれが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するという「その能力」にある。
P211:言語は排斥の手段ではないが、誰もが全ての言語を学ぶほど長生きできないという、バベルの宿命だけによって制約されているる。ナショナリズムを生み出したのは出版後で、決してある特定の言語が本質としてNを生み出すのではない。1950年代にはインドネシア人は殆ど誰1人として、バハサ・インドネシア母語として話すことはなかった。・・・一部の人々、特に国民主義運動に参加した人々がバハサ・インドネシア/ディーンスト・マレイスをも使用していたに過ぎなかった。
P218:植民地国家の拡大は、「土民」をいわば「学校とオフィスに招待」し、植民地資本主義の拡大は、彼等を、いわば「重役室から排除」した。植民地Nの初期の主要な代弁者が逞しい現地ブルジョワジーとは無縁の、これまでになく孤独な二重言語のインテリだったのはこのためであった。
P236:「ゲマインシャフトの美」ーNという絆の周りには、それが選択されたものではないというまさにその故に、無私無欲の後光が射している。
P237:20世紀の大戦の異常さは、人々が類例のない規模で殺しあったというよりも、途方も無い数の人々が自らの命を投げ出そうとしたということにある。
P246:植民地帝国がかなりの数のブルジョワとプチ・ブルジョワに「内地以外」でなら帝国のどこでも「貴族する」ことを許した。
P247:欧州には「一軍」、植民地には「二軍」(将校以外は、現地の宗教的少数派や少数民族出身の傭兵で編成された)
P250:スペイン語を話すメスティーソのメキシコ人は、彼らの先祖を、カスティリア人征服者にではなく、なかば消滅したアステカ、マヤ、トルテック、サポテック人にたどる。
P255:(20)外人部隊は大陸フランス本国での作戦行動を法的に禁止された。
(22)「スパイ」はセポイと同様、オスマン帝国のスパーヒ(不正規騎兵)から派生したことばで、アルジェリアの「二軍(植民地軍)」に雇われた不正規騎兵のこと。
19世紀におけるフランス帝国の拡大の(ひとつ)は植民地軍司令官の独断専行の結果。
(23)人種主義的隠語から潔白なのは、主として植民地住民かもしれない。アメリカ黒人はさまざまの対抗的語彙を発展させた。
(24)3世紀にわたるスペイン支配で比にはかなりのメスティーソ人口が生み出された。
「ルリタニア」
P267:古い配電盤と宮殿を相続するのは「指導部」であって「人民」ではない。
P274:アジア、アフリカの植民地世界における「公定N」の直系の系譜は植民地国家の「想像の仕方」に求められるべきである。
P276:植民地時代の進行とともに、人口調査の範疇がより明白に、より排他的に、人種的となる。対して、宗教的アイデンティティは次第に人口調査の主要部分から消えてゆく。例:「シーク教徒」→「擬似民族下位範疇」に
P280:サングレーは福建語のセンリ(商人)がスペイン語
P298:フランスの復元したアンコール・ワットは、ジグソー・パズルのピースとして、シアヌーク王政、ロン・ノル軍事政権、ポル・ポトジャコバン体制の旗の中心的シンボルとなった。
P305:東ティモールでは、1976年の侵略以来、最初の3年間で、人口60万の3分の1が戦争、飢饉、疫病、「再定住」によって死亡した。イリアン・ジャヤと比較してこれ程にジャカルタが残忍になれるのは、東ティモールがオランダ領東インドのロゴ、更に1976年まではインドネシアのロゴにも存在していなかった、ことによると言って誤りではないだろう。
P322:18世紀オランダの裕福な市民は家庭でフランス語だけを話すのを「誇り」にしていた。ドイツ語はロシア帝国西部の多くの地域において「チェコ人」のボヘミアにおいてと同じくらい、文明の言語であった。18世紀末にこれらの言語が何か領土的に定義された集団に属するなどとは誰も考えなかった。
P359:”ノルウェー人の多くはスウェーデン語訳を読めるが、我々(ノルウェー人)はスウェーデン語訳を読むくらいなら、英語の原書を読む。”
P365:「洋書」に対するブラジルの情け容赦の無い関税
P367:(本書の台湾語訳を)台北中国時報は上海人民印刷局の海賊行為に手を貸したばかりか、上海の共謀者が(訳者)呉叡人のテキストを検閲削除するのを許した。
P376:”翻訳とは裏切りである”ー私がインドネシア人に扮し自分自身「小規模の」海賊行為をやって、「海賊」と闘っても無駄だ。ー
「こういうことはやっては駄目だ。これは、所詮、政治的腹話術だ。アメリカは笑うべくも「知的」(?)財産権を守れと主張する。いまやっているのはそれを非営利的なかたちで弁護しているにすぎない。」ー本書はもはや私のものではないのである。