裏社会の日本史

裏社会の日本史

裏社会の日本史
P19:明治4年太政官布告第61号発布時の調査によれば、被差別民は「えた(73%)280311人、非人(6%)23480人、えた・非人に分類されないその他被差別(20%)の79095人」
P20:江戸ではあからさまな差別カテゴリーに属さない人々が携わる30の職業が、えた頭・弾左衛門の「裁判権」下にあった。
P22:16世紀以後、賤民・周縁民は一つの文化を国の規模で広め、国家的アイデンティティの意識形成に寄与した。
P23:9世紀後半にライ病者は村落から追放された。身分や病、罪や不運のために路上に打ち捨てられた者が漂泊民となる。
P25:天皇死後の遷都は死穢の忌避の一例で、臨終間際の譲位慣行はこれを避ける為。
P26:7世紀後半の肉食禁止令は、耕作に使役する動物の保護目的(でもあったか?)。
860年に「鷹司」廃止、近畿地方に人里離れて生活する「えた共同体」が11世紀に始めて出現する。武具需要が旺盛になる戦国時代に皮革業に対する差別は(一時)和らいだ。
P29:近畿地方では街道沿いの一定間隔で「えた共同体」が置かれ、交通・交信の管理維持、農民一揆の際の秩序維持に従事した。
長谷川紳『股旅草鞋』
「浮浪帳」−浮浪人の記述は670年「日本書紀
P36:寺院建設や灌漑、架橋、慈善事業の為に聖が行う勧進が、民衆に公的枠組みの周縁に存在する共同体の意義を知らしめるのに貢献した。
P44:太閤検地で、革皮職人の居住集落は、別職業の他の構成員が居ても「えた共同体」とされた。
1774年えた、非人の寺社への出入り禁止。
非人は社会的落伍者(私生児、破産者、不良少年、乞食、障害者、らい者=物吉)、17世紀始め、非人身分は一代限りだったが、江戸末期には一般生活には戻れなくなる。「野非人」=商売に失敗した者、飢饉による落伍農民。
1751年、車善七と松右衛門の配下にあった非人は推定10855名。「非人溜り」=浅草、品川。
P48:染色業(青屋、紺屋)は18世紀末にエタの身分と切り離される。
P52:エタは1715年=145000人から1871年=280000人に増加
「かわた百姓」
1689年に座頭、1707年に人形浄瑠璃師が、エタ身分から解放された。
良民の下に位置するグループは順に、乞食芸人(乞胸)→被差別農民(夙)→茶筅職人→猿飼→エタ・非人:「乞胸」=元は浪人、外部者と通婚可能で、1773年まで二本差許可。居住地は日本橋や上野。(代表例→長嶋磯右衛門)、職業は「猿若、万歳、辻放下、綾取、手品師、人形あやつり、三味線の弾き語り、説教師、役者の物真似、仕方能、物読、講釈師」
猿飼は長の「長太夫」に納付金を納める義務。
P63:1859年、江戸町奉行池田播磨守「エタの命は平民の7分の1」←(注64、この裁定の文書記録存在せず)
1855年備前でエタ主導の反乱、
「徳川体制化において、反乱が増える前の社会が硬直し、停滞した社会と看做すのは間違いである」
P69:1690年エンゲルト・ケンペルは長崎で、都市の労働者に驚いている。「これほど大量の都市プロレタリアートを擁し、産業化の途についた社会は他に殆どない」ゲーリー・P・ルップ
P74:解放令発布後、30年間は差別撤廃はないがしろにされ、「特定職業の独占権」を失った旧被差別民の生活状況は明治期に悪化した。しかし、旧被差別民のエリート層は得意分野で企業経営者となる。弾左衛門の末代は荒川に軍靴製造工場を、弾左衛門の配下らは浅草に神輿製造会社を興し、成功を収める。
「差別は明治に完成したのではない。本当の差別は明治に始まった」住井すゑ橋のない川
P77:寺社から排除されていたエタも浄土真宗門徒の支援を得ていたが、明治期以降、浄土真宗は旧被差別民から距離を置く。
「衛生思想が穢れの忌避に取って代わり、貧困は不潔の同義語になった」
P80:現代日本の六千地区に散らばる三百万人の「部落民」ー「差別は都市より農村部において、より含みが多いようである。」
1874年[恤救規則]
P93:1923年の関東大震災で東京の貧民街は一掃された。
1900年〜横山源之助の描いた3大貧民窟「万年町→板橋区岩の坂、新網町、鮫ヶ橋」、1926年〜南千住、三河島、日暮里、西新井
P108〜:河村瑞賢、小沢弁蔵、小林佐兵衛、横山源之助、吉田磯吉、頭山満
P126:佐藤満夫、山岡強一
P139:寿町界隈のホテルの経営者は日本人だが、オーナーは在日韓国朝鮮人、寿町には朝鮮総連事務局が有。「カラバウ会」、「バターン・ギャング」
P178:「勘当帳」
P180:差紙をつけられた返答人(被告)、「公事宿」の主は私設弁護士、司法書士を務めた。
P182:重松一義によれば、18世紀初頭の江戸では、その訴訟件数からすると、犯罪率は比較的高かったという。1717年に告訴41700件
「二足の草鞋」←
幕府は、精神疾患も非行も犯罪も明確に区別しなかった。
P188:博徒は自身が手配師であるか、日雇を監督下に置く親方と結びついていた。というのも、賭け事は日雇労働者を集め、給料の支払いの一部を取り返す手段だったから。
『浅草博徒一代』伊地知栄治
P198:徳川末期の一揆指導者→「世直し大明神」
佐倉惣五郎、田代栄助
P201:自由民権運動の活動家は資金作りに、やくざに援助を求めるのを躊躇わなかった。→1884年9月、神田界隈質屋での爆弾テロ。
”無法者が確固たる信念を持った人間であることは稀で、権力者側の庇護が彼らの利益と合致する場合、信念は揺れる。→中国においてやくざの果たした役割、同様に中国盗賊の侵略者への加担、そして後の共産主義者への加担。
床次竹二郎→「大日本国粋会」、梅津勘兵衛、酒井栄蔵「大日本正義団」、米村嘉一郎「赤化防止団」、内田良平黒竜会」、児玉誉士夫「独立青年者」、山本菊子(韓太太)、「大陸浪人」、川島芳子、小日向白朗、
P210:フィルターに微量のヘロインを含むタバコの販売の促進
やくざは都市の申し子である。ナポリのカモッラ
P213:やくざはアメリカ占領軍の厚遇を受けた。シチリア・マフィアもアメリカの支援で再興した。
P215:「第三国人」:田岡一雄指揮下の山口組組員は、韓国・朝鮮人やくざに「警察署で人質に取られていた警官」を救出した。他に京都、大阪、東京でやくざが警察を「第三国人」から救った例がある。
芝山金吾、尾津喜之助『新やくざ物語』、安藤明「大安クラブ(若とんぼクラブ)」、
赤狩り」は戦犯・戦争協力者の釈放・名誉回復の時期と重なる。裕仁天皇を裁判にかけない告知は占領政策の方向転換の徴。
田中青玄、真木康年、井上日召、佐郷屋留雄、小沼正、護国団→1954年「護国青年団」は出版社・映画人へのゆすりが特徴、
P222:1956年の売春防止法施行まで、売春はやくざの活動ではなかった。(それまでは卑民の経営)
武井敬三
P242:パチンコ店はゆすりの対象となりやすく、組員が景品交換を監視した。
P252:宮崎学”「犬獲り」地区の子供にはほとんど(土方か、やくざ以外の)選択肢は無かった。
江戸のえた・非人はあまりに社会の周縁へと追いやられていたので、やくざの重要構成員となることはなく、やくざは賭博師や行商人からなっていた。旧被差別民がやくざの重要な構成員となるのは、明治期以降である。
柳川次郎、町井久之、
P265:組と接触したければ電話帳の「相互扶助団体」で探す。
P287:1981年の商法改正で総会屋は一層「やくざ化」した。
矢崎武明「自由民主党同志会」
P300:1992年暴力団対策法で、大半の警察はやくざやその情報源との繋がりを失う。
P320:「浮浪売り」
「近江泥棒、伊勢乞食」
『十三香具・虎の巻』、『香具仲間掟の事』
P348:一時期、義賊が存在したのは、無法者たちが主流勢力側にあったからなのである。
「非合法性の植民地化」
物言わぬ、孤独な貧窮の民は、最後の偉大な拒絶のヒーロー