新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

田川建三 訳著 新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書
(マルコ)
P130:マルコが「福音」の語を用いたのは、当時のパウロ派が用いていた「福音=キリスト教」に対する非常に挑戦的な行為だった。パウロ(派)は福音の中身として、かつて生きたイエスの存在を丸ごと無視し、幻想の中で出会った復活のキリストによる「救済」のことのみを考えていた。
P133:1・1「イエス・キリスト」 この頭に”神の子”が付いている写本(カイサリア系には皆無)は、後世写本家の挿入、
P149:1・21 英語は、西洋諸語の中で、未完了過去という文法的範疇を殆ど失ってしまった珍しい言語。この点で、英語は欧州諸語の中で例外に近い、英語には「アオリスト」を代替する範疇が存在しない。
P166:1・40 古代・中世のライ病には、今日の「ハンセン病」の他に多少の皮膚疾患も含まれている。
P186:3・7 マルコは「サマリア」忌避
P217:4・39「風はやみ」古代オリエントだけでなく、ギリシャ語世界でも、風、息、霊は同じものであって、要するに空気の動きはすべて目に見えない霊の動きだと思っていた。従って、人間にとり憑いている悪霊に「黙れ」と言うのと、風に「黙れ」と言うのとは、騒ぎまわっている霊を叱り付ける、という点で、同じことをやっている。
P230:6・4は二重否定「・・・以外では・・・ないことはない」
P243:6・39「座る」=もたれかかる:長椅子に横たわり召使の給仕で寝て食うのはギリシャ・ローマ人の金持ち、庶民は座る。
P255:7・4「広場(=市)から」→買い物から帰ってきたら
P259:7・11「コルバーン」←他人に使わせない為に使う言説
P262:7・19「便所(または水路)」
P270:7・28 マルコではここに限って「主よ」が使われている
P272:7・31「ガリラヤの海へ、デカポリスの領域の真ん中へと」 マルコはガリラヤ湖周辺の地理を知らないのではなく、文章を省略しすぎて下手なだけ、地理を現地の人間ほど、その地理を説明的に書くのは下手なもの。
P278:8・7「それ(小魚)を祝福して」・・・宗教儀礼など、正確なやり方や意義づけや言葉遣いを知っているのは小数の宗教的上層階級だけであって、庶民は随分と迷信的に誤解して受け取っているもの。・・・中世の欧州で、キリスト教の儀式や教義は庶民の間では、ただのオマジナイとしか受け取られていなかった。
P327:10・1「ユダヤの領域とヨルダン対岸へと」・・・マルコのイエスガリラヤ地方を中心に活動、多少近隣のデカポリスの支配領域、テュロス、シドンの地方、フィリポスのカイサリアの地方に出て行くことがあっても、そのつどガリラヤ(特にカファルナウム)に戻って来ていた。しかし、10章からガリラヤを去り死地ユダヤを目指す。
P352:11:50「上着を投げ捨て」・・・脱ぐとは書かれて無い。「子驢馬」・・・この語はギリシャ語では普通「子馬」を指す。
P360:11・10「我らの父ダヴィデの国に祝福あれ」←バビロニア・タムルードのベラコート16bには、アブラハム、イサク、ヤコブ以外を「父」と呼んではならないとある。
P363:11・12「彼は腹が減っていた」←全ての写本にある。
P364:11・15神殿献納用貨幣はテュロスで鋳造された昔のフェニキアの通貨
P375:ネヘミア9・26
P376:お互いに写しあっているうちに、確立した知識のように思えてくる。
P380:「熱心党」はパリサイ派中の純粋民族主義派から生まれた独立運動
P399:13・9「サンヘドリン」三権分立以前の「議会」には注意、行政権力でもあり内輪的な裁判機能も備えている。また、ユダヤ教と無関係の都市の政治組織を考えて使われている場合もある。
P406:13・14「荒廃の忌むべきもの」→彫像、エルサレム神殿に建てられた前186年のゼウス像のこと。39年〜41年にはカリギュラ皇帝像が建ち損ねた。
P427:14・18「食卓について」:ここと6・26「ヘロデ家の宴会の場面」の二箇所に限り「座る」ではなく、正確に「長椅子に横たわる」意味である可能性はある。
P429:「引き渡す」→3世紀末から4世紀にかけての弾圧に屈して棄教した教会指導者が聖書を「引き渡す者(=裏切り者)」になる。
P433:14・20「鉢」→フィンガーボール、・・・マタイはマルコの文を正確に理解している。
P440:14・32「ゲツセマネ」←油搾り機
P456:14・66「下の中庭」・・・受難物語の原型が、この時建物の中に居た人物(議員の一人か?)が語ったことが基本なら、ここで中庭を「下」と指すのはおかしくない。
P459:14・72「身を投げ出して、泣いた」・・・エラスムスやルターの手抜きの誤訳を正当化するための学説など考えるのは時間の無駄である。
P467:15・21「畑から帰り」、キュレネ(出身)のシモンは畑仕事の帰りを徴用された。
古代には正字法など無かったし、母音融合、子音融合によって訛った発音を適当に綴っていた筈である。
P479:「マグダラ(人)のマリア」は受難物語の3箇所(15・47、16・1、他の福音並行記事)と「ルカ8・2」以外には登場しない。
P480:15・40「小ヤコブ」=イエスの弟、「ヤコブとヨセ」が兄弟なら、6・3で言及されているイエスの兄弟以外ありえない。
P496:16・9以降の付け足し:・・・マノリスという弟子に宛てた文書という形でエウセビオスが記した新約聖書の諸問題に関する解説「福音書の諸問題の書」の中の一つでエウセビオスは、彼の知っているマルコ福音書の写本の多数は今日の章節で言えば16・8とされるところで終わっている、とはっきり証言している。
(マタイ)
P511:1・21「イエスヨシュア→イェーシューア→イェーシュー
P518:2・6「ユダの地」 実はユダヤの「ヤ」はギリシャ語(地方名の)抽象名詞語尾、ヘブライ語ではユダ(人名)とユダヤ(地方名)を区別しない。
P529:マルコには出てこない「文」で、マタイとルカにのみ一致する「部分」を学者たちはまとめて「Q資料」と呼んでいる。・・・一冊(巻)の実在であったなどという証拠は、全く無い。
・・・一部のアメリカ人神学者のように「Q資料」の「原文」なるものを「再構成」し、これが本物のQ資料と称して印刷発行したのは、幼稚としか言えない。・・・別に「Q資料はイエスの語録である」という定義があるが、全く根拠が無い。
P548:「貧しい者」新約全体で34回・・・聖書ギリシャ語に限り見られる独特の語彙が一定数存在する。→「栄光、福音」等、「貧しい」はフィロンやヨセフス(ユダヤ戦記で1例)は殆ど全く用いないが、70人約全体には150回弱も用いられている。
P554:5・13「もしも塩が馬鹿になったら・・・」 福音書記者3人ともこの格言が用いられた時の具体的な場面・状況をよく理解していない。
P557:517「律法と預言者・・・完成する」→「一点一画たりとも律法から過ぎ去ることはない」
P559:5・19「天国において最も小さい者と呼ばれる」 直前の「これらの戒命の最も小さい者」に合わせた語呂合わせの表現、マタイ著者は著作全体の整合性に気を配って、全体の台詞に矛盾が生じないないように努力する人ではない。しかも表現がやたらと派手で大袈裟だから、論理的にはあちこち矛盾が出る例、ここは最も駄目な奴、滅ぼされる奴と言っているに過ぎない。
P567:5・32「彼女を姦淫の対象にさせる」:「姦淫する者も、姦淫される女も」、女は対象物に過ぎないが、死刑に処せられる。
P577:5・40「訴訟をおこして・・・下着、上着」 借金の方に衣類を取り上げられる場面が想定されている。
P586:6・7「異邦人のように」 異邦人が駄目人間の代名詞になっている。
P593:6・11「来る日のパン」 その日のパン 新約儀典『ナザレ人福音書ギリシャ語のマタイ福音をアラム語に焼き直したもの。
P602:6・12「我らもまた・・・赦しましたから」 ”私は他人に対してその負い目を赦してあげたのだから、神によって赦される権利がある”、ギリシャ語を第一言語とするマタイがアラム語の時制の使い方をギリシャ語文に持ち込むなど考えられない。
P608:6・26「すぐれた者」、6・27「年齢」
P610:6・30「竈」 古イオニア方言klibanos、古アッティカ方言kribanos、R と L を混同するのは我々だけではない。 
P625:8・12「御国の子ら」 自分たちこそ将来神の国に入ることが約束された者と主張する一部のキリスト教徒(パウロ主義者?)を批難している。
P627:8・17「弱さ」 イザヤのヘブライ語原文の意味は別として、福音書の言葉遣いとしては、病気の意味。
P628:8・19「律法学者」 ルカは「ある人」、ルカは不特定者の発言にしたがる傾向があり、マタイは「律法学者」にするのを好む。→元来は「ある一人の弟子」であった可能性が強く、とするとマタイは律法学者にもイエスの弟子がいたと思っていたか?
P630:8・28「ガダラ人」 写本の多さでは「ゲルゲサ」が非常に多いが、写本の重要性からすれば、原文の読みは確実に「ガダラ」
P640:10・5「異邦人の道に行くな、またサマリア人の町に入るな」 明瞭にマタイ自身による付加。マタイはヨハネ福音著者と並んで強くユダヤ教に対して、極度の嫌悪感を示すが、ヨハネと違い、ユダヤ人優越意識、ユダヤ教的伝統尊守の精神が他の新約著者の中で最も強い。だからマタイ(派)にとってはキリスト教といえども、異邦人やサマリア人のものではあってはならないのである。
P651:10・28「生命」 ・・・古代人は霊魂不滅を信じていた、などと解った様な解説をなさる人がいたら、何も解っていない証拠である。・・・「死後」の世界について、古代人全体に共通する確乎とした統一的で整合性のある思想などが存在する訳が無い。・・・
P664:11・12「暴力をふるう者たちがそれを奪い取っている」→洗礼者ヨハネの弟子集団に対する批判、イエスは「神の国」という宗教理念には非常に冷たく距離を置いている。
P676:12・8 マタイとルカはマルコ2・27を削除している。
P684:12・28「神の国があなた方のところに来たのだ」 病気の治癒が、どんなに素晴らしい事か
P687:12・32 人の子(生前のイエス)に対する罪は赦されるが聖霊(イエス死後に成立したキリスト教会の信仰の根拠)に対する罪はもはや赦さないぞ、
P691:12・49「そして自分の手を弟子たちの上にのばして」 マルコでは群集が母兄弟姉妹であるが、マタイはこれが許せなかったので弟子に変わる。
P702:14・1「四分領主(=四分の一の領主)」
P707:14・21「女と子供は別として」 マルコでは老若男女の区別なく全体で「5千人」のところ。
P733:17:4「主よ」 マタイでイエスに「ラビ」と呼びかけるのはユダだけ
P736:17・24−27《神殿税》イエス自身は払っていないのが事実だった。
P743:18・17「教会」 時代錯誤
P745:18・23−35《借金を赦さぬ金持ちの譬え》並行記事のない独自記事でもイエス自身の発言に拠らない訳ではない、という典型的事例。ただし35節は明瞭にマタイによる付加的結論。
P752:19・10「人が女とともにある理由がそういうことであるのでしたら」 この文は直訳的逐語訳をしたのでは、意味が通じない。酷く単語を節約してしまっている。→「人が女と結婚する目的が、一生絶対に離縁しないで一緒にいる、ということであるのだとすれば」とでも言いたかったか?
P757:19・17「戒命を守りなさい」マタイにとってはキリスト教ユダヤ教の批判克服であってはならず、パリサイ派よりも徹底したユダヤ教戒命のソン遵守でなければならない(5・17−20)
P759:19・28「あなた方もまた十二の座に座って、イスラエルの十二の支族を裁くであろう」マルコのイエスとマタイのイエスは正反対の方向を向いている。
P760:20・1−16《葡萄畑の労働者の譬え》いかにもイエスらしい質が典型的に表現されていてイエスの譬話の白眉ともいえる。
20・2「デナリ」 この1デナリは日雇労働者の平均的日給というよりは、一種の理想的願望を投影した金額(であろう?)。16「最後の者が最初の者に・・・」は付け足し。
P763:20・20「ゼベダイの子らの母親が」 何事も悪いことは女の仕業にする。
20・27「あなた達の」
P768:21・8「木から枝を切ってきて道にひろげた」 マタイもマルコと同様に、これを仮庵祭の行列とは解していないことが判る。
P775:21・43「神の国」 ここだけ、マタイは「天の国」でない、理由は不明。 「民」 マタイにとってのキリスト教ユダヤ教の完成。
P778:22・7「彼らの町を焼き払った」 後70年以降に書かれた鮮明な証拠。
P781:22・24「姻戚関係になり」 その女性と性的関係を持つが「結婚していない」状態を表す(70人訳の)歪曲表現。
P783:22・35「法学者」 ルカと共通の非マルコ資料を写したから、マタイお得意の「律法学者」でない。P787:23・5「経箱の紐」=お守り 
P791:23・23「いのんど」
P793:23・31「こうして汝らは、自分が預言者殺しの子であることを証言している」 義人や預言者を弾圧した連中が義人・預言者を褒めちぎって慰霊碑を建てる。
P797:23・35「バラキオスの子ザカリア」 『ユダヤ戦記』4・334−344(=4・5・4)で後67、8年にエルサレムを手中にした「熱心派」により殺された「バルクの子ザカリア」。
P799:24・3「あなたの再臨」
P811:25・14「タラント」→日本で「タレント」
P820:25・41「悪魔とその天使ども」 天使は此の世を越えた超越的存在と人間との間をつなぐ者。
P824:25・15「銀貨三十枚」←創世記21・32の「三十シェケル(重さの単位)」
P842:27・56「ゼベダイの子らの母」 マルコの「サロメ」を変えた。この場に居た可能性は無い。
P844:28・1「安息日の夕方、週の第一日がはじまろうとしている時に」
『概論』=未発行の「新約聖書概論」、多分『事実としての新約聖書』となる。