図説 不潔の歴史

図説 不潔の歴史

不潔の歴史
P6:全員がくさいところでは、誰も匂わない。−聖ベルナルドゥス
P10:体臭はふさわしい状況でさえあれば強い催淫効果をもたらす:「明晩パリに帰る。洗わぬように」ナポレオンー遠征先からジョセフィーヌ
P13:英国の「バス勲章」
P14:コーカソイドは体表に膨大な数のエクロン腺があるのに対して、アジアには全くないか、あまり無い。
P21:古代、死者と悲しみに触れれば、象徴的な意味でも文字どおりの意味でも「不浄」になった。
アキレウスは友人パトロクルスの訃報を聞いて「汚い塵を頭からかぶり、顔も汚し」、葬儀の執行まで汚れを洗い落とすのを拒んだ。
P23:イビビオ族は汚れを溜めて喪に服すー1894年、メアリ・キングズリー『西アフリカを旅して』
P26:『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンは湯浴みこそがローマ弱体の主原因の一つと確信していた。
『人それぞれ』テオプラストス
P32:ローマ時代には平日は早朝、午前6時までに仕事を始め、昼下がりには終えていたので、午後2、3時に浴場に入った。女性、召使、奴隷は午前中に入浴したので、共同浴場に出かける主人のお供が出来た。
スブルバナエ浴場壁の8つのフレスコ画
P34:「2人連れがここで、エパフォロディトゥスというどうしようもなく最悪な係りを、なんとか通りに追い出した。それですっかりいい気になって、105・1/2セステルティウムはずんでおまんこした。」スブルバナエ浴場、入口近くの部屋(娼家?)の落書き
P38:<テルマエ>初対面の相手に、通っている浴場を尋ねるのが、当たり前にさえなっていた。
『浴場』セネカ
P54:ギリシャ正教会の女性は月経期間中に聖体拝領を受けないのは、ヘブライの残滓。
P59:3,4世紀ローマの聖アグネスは生涯、体を洗わなかった。
P65:「年に二度、クリスマスの前と復活祭の前にしか入浴しない」ーウルリヒ・クリューの修道士、1075年
P70:「自分の排泄物の上に座った聖人が数多く絵になっている」19世紀スペインをよく知るイギリスの旅行家リチャード・フォード
P75:1518年、ロンドンの名門セント・ポール校長ジョン・コレットは新入生に、小用の便所は設置した。ー「他の用があれば」テムズ川にいってしなさい。
P76:5世紀以来西欧で衰退・消滅した共同浴場は、十字軍がトルコ風呂(ハマム)を持ち帰ったことで、復活した。
P77:中世の主人たちも褒美として、召使や使用人が浴場で過ごすのを許した。神聖ローマ帝国では《風呂手当》が給料に組み込まれるようになり、入浴税のおかげで貧者は無料で風呂に入れた。
P78:南欧と違いアルプスより北の国では、家族皆で裸(同然の格好)で街中を浴場まで歩いて行く。
P80:1414年頃のバーデン浴場では湯船に盆を浮かべて食事を取る。
『フラマンカの物語』
「娼館」は「蒸し暑い」が語源、15世紀のフランスでは娼婦を囲うのは普通のことで、浴場は女郎部屋よりいくらか高級な《赤線》になる。
『素養之書』ジョン・ラッセル
P89:1348年、仏国王フィリップ6世がパリ大学医学部にペスト発生源の調査依頼をした結果、土星木星と金星が災いの配置になり、土や水から病の「気」立ちのぼり、空気が汚染されている。これに感染しやすいのは、従来の「肥満、不摂生、激しい気性」に加えて「湯浴み」が全身の毛穴を開けて「気」を体に取り込む危険を指摘した。この体表の孔が危ないという見解は、以後350年近く解剖学の主流になる。→孔を守る体にピッタリした服装(サテン、タフタ)
P96:「毎日体を洗う・・・習慣を失っても・・・かようにして手足の垢が層になり、体表の孔が汚れで詰まっているよりましなことがあるとは想像し難い」 体表の孔を塞いでおけば、感染を閉め出せると信じた。
”体の分泌物は体表に保護膜を作る”
P110:水は湯ほどには危険とは思われていない。
P123:18世紀初頭、イギリス女性は骨か革でできたコルセットを10年から20年も洗わずに身に着けていた。キルト布のアンダースカートも汚いぼろ布になるまで着続けるものだった。
『教育に関する考察』ジョン・ロック
P127:1,756年エドモンド・バーク『崇高と美の観念の起源』がでるまで、海は不気味な場所で、狂犬に噛まれたあとの最後の神頼みのときにしか、誰も海に入ろうとは思わなかった。
P146:「ビデの騎士」仏語で売春斡旋業者を指す隠語。1,880年頃から
P149:ナポレオンは蒸し風呂を好み毎朝2時間は入って、その間、補佐官が新聞。電報を読み上げた。有事のときほど長風呂になり、アミアンの和約を破棄した1,803年には6時間になる。1世紀前のルイ14世は水を避けていた。
「ジョージ・ブライアン・ブランメル」、梅毒第3期症状に進行、死去6ヶ月前には腸が麻痺して、排便を制御出来なくなった。
1,886年、清潔と不潔は入れ替わった。
ジャガイモ飢饉で流民が押し寄せ、1841年ロンドン・セント・ジャイルズ地区チャーチ・レイン沿いの27軒には655人が住んでいたが、6年後には1095人に増えた。
P168:ランドリーの起源:1832年リヴァプール労務者の妻キティ・ウィルキンスンが裏庭に洗濯紐を張って、銅のたらいを洗濯に来る女性に貸し出したら、たちまちあちこちで共同の洗濯場が出来た。
1842年、イギリス初の公共洗濯場兼浴場「フレデリック・ストリート浴場」が開設。
P170:「水男」
P173:1900年頃、ドイツ人は平均して年に5回しか風呂に入っていない。
「人民の風呂」
P190:1908年、(仏)市営シャワーの利用客15万人の半数は女。
P191:1798年、エリザベス・ドリンカー
P193:19世紀終盤の数十年までには、清潔と敬虔が米国民らしさと結びつく。
1826年、ヴィンチェンツ・プリースニッツの<グラーヘンブルグ>水療法センター
P200:F・ナイチィンゲイルは、従軍中の病気・感染症による死者が、銃創によるものを凌駕することに目を向ける。1846年〜48年の米墨戦の銃創:病気の死亡比は「1:6」であったが、”予防衛生に努め、清潔を信条に戦う”とその後の南北戦争ではこの比が「2:3」になり、医者や国家公務員たちは、「公衆衛生」に関心を払うようになる。
P203:ブッカー・T・ワシントンは現在のパンプトン大学には教頭から教室掃除を命じられ、三回掃き、誇りを4回払って、入学を許可された。
アイルランド人の使う水は「聖水」だけだ”19世紀、米国の言い習わし
P211:20世紀の始めの10年間に建造されたアパートの86%には浴槽があった。築年数が経ったものも競合の為に浴槽を付加せざるを得なくなる。
アメリカ女性の家庭』ハリエット・ヴィーチャー・ストウ&キャサリン・ヴィーチャー
1880年代、米国人6人に5人はバケツとスポンジで体を洗っていた。
P216:1859年、エミリー・ソーンウェル『完璧な上品を目指す淑女の手引き』
P219:1912年、『ピグマリオン』のイライザ・デューリットルは風呂を警戒している。清潔を疑ってかかる昔ながらの風習が抜けなかった。
P225:”下層階級には悪臭がする”1937年、『ウィガン波止場えの道』ジョージ・オーウェル
P240:1920年代に登場した生理用ナプキンはWW1中、シールコットン社(後のコーテックス)が、仏陸軍病院向けに納品した木の繊維でできた包帯(シールコットン帯)を、看護婦たちが使い捨ての衛生ナプキンとして使うようになったのが始まり。
P249:1940年、米国家庭の55%が浴室を完備、1931年、イタリアは10%、1954年、フランスでシャワーか風呂のある家かアパルトマンは10戸に1戸。
P250:P・デイヴィス、G・クロフォード、R・クルーニー等、銀幕スター10人中9人は<ラックス・ガール>だった。
P251:1956年、ホラス・マイナーの<ナーレシマ>
2005年、米国で新築された家の24%には3室以上の浴室がある。←たとえ、家族であっても同じ浴室を使いたくない。
P258:古代ギリシャでは恥垢は石鹸だと思われていた。
シセル・トロース
アントワーヌ・プロスト『私生活の歴史』
<オーラル・ケア・ストリップ(舌に貼る抗菌テープ)>
<バス・ルーム>がオクフォード英語大辞典の補遺に掲載されたのは1972年
フランス革命で「あらゆる人は自分専用のベッドで寝るべきである」という考えが広まる。それまで、家では家族と、職場では同僚と、宿では他の宿泊客と寝るのは当然で、仕切りの無い公衆便所で用を足し、大勢が入る墓に一緒に埋葬されるのが当たり前と思っていた。
P276:<衛生仮説>:1989年、D・P・ストラチャン「花粉症と衛生と家族規模」”不衛生な接触と感染は大家族で起き易いが、それがアレルギー症状が重くなるのを防ぐ”−バクテリアが足りないと、Th1リンパ球の代わりにTh2リンパ球をつくる。Th1が健やかに活性化しなければ、Th2システムが急速に働いて、免疫システムがアレルギー反応を引き起こす方に傾く。
P278:豪州バースでは、喘息児童にプロバイオテティクス細菌と抗酸化物質入りの「不潔剤」を処方して観察中。日本では、土壌菌と関係のある結核菌を弱くしたマイコバクテリウムを与えられた子等は、喘息やアレルギー性疾患の罹患率が低い、という結果がでている。
ー1980年代後半、エーリカ・フォン・ムーツィウスー”アレルギー性疾患や喘息に罹患しやすいのは、都市部の一人っ子で、保育所に預けられたこともペットも飼ったことなく、日に5回以上手を洗い、日に一回以上入浴する子たち”
P279:トーレ・ミィツヴェツーばい菌は根絶しないで、病気を根絶するー
P282:<手洗い>ホメロス叙事詩の登場者、中世の騎士・貴婦人、他の部分はまるで洗わなかった17世紀人も「手」だけは洗った。現代でもアメリカ疾病予防管理センターは「感染拡大を防ぐ唯一重要な方法」と手洗いを「聖別」している。