冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

冠婚葬祭のひみつ
P2:小笠原流『大諸礼集』、小笠原長清、小笠原長秀
P8:「告別式」は無神論中江兆民(篤介)が仏式葬儀を嫌い、遺体解剖後に直に火葬するよう遺言。遺族と友人(代表板垣退助)、弟子が相談し青山斎場で「告別式」の名でお別れ会を開いた。
P10:「永嶋式家結婚式」1915年、鶴35円、亀25円、松20円、竹15円、梅10円:神前や仏前結婚式は西欧の(キリスト教式)結婚式の影響と、対抗意識から生まれた。
P16:大阪の葬儀社「駕友」の経営者鈴木勇太郎が1899年に祭壇と1917年に霊柩車を発表する。
P18:1887年に東京博善社を起こした木村庄平は牛鍋屋の主人、近代火葬炉の導入により座棺から寝棺へ移行。
P22:1898年「明治民法」発足で「○○家代々之墓」のスタイルが登場。明治民法下の家制度が視覚化された。
P26:明治になるまで「家」という存在に縛られていたのはせいぜい武家と相続する財産のある豪商や豪農ぐらい。戸籍制度が出来た時点で、これに合致する家族は2%程度(湯沢『明治期の結婚 明治の離婚』)。この2%をモデルに民法を作った。庶民は家より共同体、血縁よりも地縁が優位であった。
P63:1960年から1970年代の結婚式は、「血縁+社縁+学校縁」で成り立っていた。
P64:「神前結婚式+披露宴、仏式葬儀+告別式」というスタイルは、親戚が多く、しかも彼らが全国各地に散らばり、終身雇用制の企業社会に生きていた時代の暮らしに合っていた。
P65:1970年1月、塩月弥栄子『冠婚葬祭入門』:著者塩月弥栄子裏千家15代家元千宗室の姉。「男は芸術/女は作法」、「小笠原流」→「裏千家
P79:戦後の改継承者は「習慣に従って」とある習慣とは明治民法
P81:仲人・媒酌人は消滅:1995年には60%以上が媒酌人つきだったが、2005年に媒酌人(式当日だけの仲人)がついたのは全国平均で1割未満、首都圏では1%未満。
P91:一度固定した情報の連鎖を断ち切るのは容易ではない・・・(この)悪循環がまた拡大再生産されている。
P92:1)家(血縁)+地域共同体(地縁)1900年代以降、2)家(血縁)+企業共同体(社縁)1960年代以降、3)個人+家族(狭い血縁)1990年代以降:2)から3)の流れは少子高齢
P95:低学歴(生存結婚)、高学歴(保存結婚):現在の晩婚化は賃金労働は夫に任せて自分は上澄みを吸って生きて生きたい短大クラスの中学歴層(依存結婚)が不可能になったからー小倉千加子『結婚の社会学
P103:「キリスト教ブライダル宣教団」、「街の教会」
P127:(披露宴の)スピーチに混じる金言は新郎新婦をよく知らないお偉いさんが主賓に招かれたときの、実は窮余の策。
P133:法律婚をすると、配偶者の親族との間に姻族関係が生じる。姻族に入るのは相手の三親等まで。
P146:子供に餅を背負わせる「力餅、一生餅」を、若い世代の9割が知っていて、実施率が8割。若い世代のほうが熱心。
P149:4月13日「十三参り
P168:6代目尾上菊五郎「俺が死んとき、院号なんぞつけたら、化けて出るぞ」−島田裕巳『増補新版 戒名』
・チャーチやチャペルは葬祭にも利用される(だろう)