ひらがな日本美術史 4

ひらがな日本美術史 4

ひらがな日本美術史4 橋本治
P24:「絵屋」:俵屋宗達の「俵屋」は長い間「扇屋」だと思われていた。「都で人気の俵屋の扇」という言い方が、当時の文献には残っているから、そう思われても当然だろう−ないしろ後の人は、「絵屋」などというものを知らないからだ。2、30年前まで、俵屋宗達は「俵屋という扇屋の主人」と思われていた。「絵屋」などというものの存在が消滅して忘れられていたからだ。
P34:宗達の絵のすごさは、「理屈」というものが一切ないところにある。−・・・日本の絵というものは、「絵」である前に「説明」で、だからこそ「仏画」とか「物語絵」とか、中国の教養をマスターするための「お勉強のための山水画」とかになるが、宗達はなんにも説明しない。・・・
フリア美術館所蔵の<雲龍図屏風>は日本人が描いた最高の「龍」
P52:「伝〜作」の「伝」とあるのは実際の製造職人ではないアートディレクターを位置づける一字。
P60:「葦手絵」、「硯蓋」は平安期にはお盆で、「硯の蓋を出す」といえば「客に菓子を出す」、日本料理の「硯蓋(=八寸)」はオードブルである。
P60:「嵯峨本」=豪商の角倉素庵と組んで古典書籍を刊行した。商業出版の初出かも知れない。−本阿弥光悦が一族・友人を引き連れて「鷹峰」へ移ったのは(日蓮不受不施派のためか?)避難。
P64:尾形光琳は破産して金に困って「画家」になる。30歳に父から譲り受けた「大名貸」の借金証文を反古にされ、金利、元金が戻らなくなる。35歳ごろ「光琳」を名乗るころには困窮し始めて、40歳には職業画家とならざるを得なかった。
<燕子花図屏風>、<紅白梅図屏風
「苦悩を野暮だと思った人間が示す行動様式を、紆余曲折と言う」
P89:(線が面でもありうる)「筆の自由」を”水墨画だけ”の限定から解き放ったのは、「たらし込み」を駆使した俵屋宗達
「没骨(もつこつ)」
P92:・・・あえて言ってしまえば、尾形光琳とは「日本で生まれた印象主義」である。・・・絵の具をペタペタ塗ることが”絵”であったフランスの画家たちは、「色の分散=光」と捉えて、印象主義となった。・・・「線=面」を達成してしまった俵屋宗達の後に来る日本の天才画家の光琳は、線を捨てることでフォルムに反応し、「日本画家の伝統(墨=線=精神)」から抜け出す。
P96:・・・表現をしたい人間は、自分のする表現の中に、「自分では考えてみたことも無いもの」を発見したいのである。
P113:桂離宮は「日本美の異端」であるが、「最も典型的に日本の美意識(=静止しない)を語るもの」である。
P121:完成は日光東照宮と同時期だが、・・・誇れる立場に居る人が、「誇らないため」に作ったのが、桂離宮である。
P133:「桂垣」、「悪意丸出しの善人」
「大津絵」、「鬼の念仏」、「藤娘」
P144:大津絵は近松門左衛門にとり「貧乏な三流絵師の描く下らぬみやげ物」、「大津絵の筆のはじめは何仏」と詠む芭蕉にとっては「仏画」。
P156:円空が”発掘”されたのは1950年代後半。江戸期の仏像は「つまらない」:奈良の大仏の顔は奈良時代ではなく江戸期の「顔」、「信仰の対象としての意味は十分にあるから、芸術上の価値はどうでもよい」
P157:・・・役場に思想がないのなら、江戸時代の寺にも思想は無い。徳川幕府は、別に仏教に仕えたわけではない。仏教が徳川幕府に仕えた。・・・江戸時代の管理社会性は、思想をなくした仏教の中に生まれて死に、その間を儒教道徳に従って生きることにある。
P159:・・・その作品を見れば、円空は現代人である。しかしその旅の道筋を見ると、円空は、まるで仏教が大衆化し体制化する時間を拒絶するように、ずっと以前の奈良時代平安時代の人間なのである。
P160:・・・信仰というものを突き抜けて、円空は、日本で最初に「芸術」をやってしまった人物であり、それはまた、”世界で最初”でもあろう。・・・
P161:「浮世絵師になる」とは、「(狩野派等)本物の絵描きから脱落する」
P165:菱川師宣見返り美人》が描かれているのは1680年代以後だが、これは「友禅染以前(=縫箔師健在の時代の着物)の作品」である。
P169:「日本で最初の浮世絵版画の内、”なるほど絵だなー”と思うような鑑賞に堪えられる独立した作品は、”吉原という売春施設における男女の光景”を描くもので、それは現代の我々が”ポルノグラフィー”と呼ぶようなものだった」というだけの話。
菱川師宣は自分の描くものを「大和絵」と言い、自分を「大和絵師」と称している。
P172:・・・版画という技法、浮世という題材は、菱川師宣の浮世絵版画によるものであるが、「江戸という都会に住む町人達の美意識を反映した、町人達のための、量産されるチープな絵」という意味での浮世絵の元祖は、懐月堂安度の肉筆画であるべきと思う・・・懐月とその弟子達は絵の署名の上に、「日本戯画」と書いた。
P175:「絵暦交換会」の絵暦=明和2年にブームになった「月の大小」を教える暦。
季節を知るモノサシが「二十四節気」:・・・立秋は「暦の日とは無関係に存在する秋の始まり」
P177:鈴木春信《水売り》で売り物は「江戸風杏仁豆腐」のような団子汁で、売り子の担ぐ茶碗を置いた台と桶の間の「木の看板」には「大の月=2・3・5・6・8・10月」という意味が隠されているが、これが「絵暦(=謎々仕掛け絵)」なのである。
P182:錦絵の誕生:センスのある金持ちの旦那衆が、”ただで出版業者にくれてやったから”である。
P189:《花下美人図》で石川豊信のしたことは、色抜きの白黒の「墨摺絵」の原画を描いただけ、墨摺絵に着色する「紅絵」の段階では、この職掌分離がある。「墨の線によって絵を描くのは芸術家・知識人だが、色を塗るのは職人」
P192:《縁先物語》は(左の)年増女に口説かれる「若衆」で、覗いてるのが若い娘。
P193:・・・石川豊信には色彩感覚はないが、明確な肉体表現はある。鈴木春信には素晴らしい色彩感覚はあるが、肉体表現は無い。