巨匠たちの迷宮 (名画の言い分)

巨匠たちの迷宮 (名画の言い分)

名画の言い分−巨匠たちの迷宮 木村泰司
カラヴァッジオ
P44:ローマで殺人を犯して逃亡中、マルタ騎士団の騎士号を授与されるが、直ぐに除名され逮捕される。マルタ滞在中に描いた『アフロ・ド・ウィニャクールの肖像』の”美しく挑発的な小姓”が大評判になるが、これは後のドラクロワやマネをも魅了する。
P47:カラヴァッジオは生前、多く批評家や市井の人から俗悪で非芸術的とされ、ニコラ・プッサンらも絵画を破壊したと看做した。死後は徐々に忘れ去られ17世紀末には知名度の低い二流画家として認識される。1951年にロベルト・ロンギに再評価されるまで、彼の作品は美術館の倉庫や教会の暗闇の中に忘れ去られていた。
ルーベンス
P69:この時代の画家は今で言えば、デザイナーズブランドの社長、ルーベンスは宮廷画家の特権でアントワープの画家組合の規約に従う義務を免除されたので、税金と弟子の人数制限からも開放され、大工房の運営が思いのままにできた。
ルーベンス本人が多く手を入れた物がオートクチュールと、殆ど助手に任せたプレタポルテでは、値段に差がついた。目の肥えたパトロンや収集家は誤魔化せなかった。
P75:チャールズ1世は1387点の絵画と387体の彫刻を収集した。
(ベラスケス)
P84:アンダルシアの慣習により7人兄弟の長子だったベラスケスは母親の姓を継ぐ。17歳で師匠パチェーコの娘ファナと結婚、聖ルカ組合に登録され画家として独立。「ボデゴン」
オリバレス公伯爵騎馬像』騎馬姿を描かせるのは、本来国家統治者に許されなかった。
ラス・メニーナス印象派を思わせる筆のタッチ、間近で見ると荒い筆使いは、離れて鑑賞すると効果をあげる。
P108:1659年サンチャゴ騎士になる。
(ニコラ・プッサン
P125:「詩は絵画のごとく」
P133:1629年に梅毒に罹患
(クロード・ロラン)
菓子職人から始まる。アルカディア(理想郷)を創造した。
P162:「グランド・ツアー」の土産に持ち帰ったロランの絵画がイギリス式庭園を誕生させる。
レンブラント
P169:ピエール・ラストマン師匠から生涯にわたり大きな影響を受ける。
『夜警』は夜ではなく、日中の光景が描かれている。集団肖像画の範疇を超えた表現は物議を醸す。
P172:イタリアには行かなかった。
P173:ヤン・リーフェンス=12歳で画家として独立した。
P180:『テュルプ博士の解剖学講義』で大ブレイク、集団肖像画は今日の記念写真のようなもので、養老院や貧困者養護施設、孤児院などの慈善施設からの依頼で描かれた。
P191:破産した後は、内縁のヘンドリッキュと息子ティトゥスが画商を営み、2人の使用人として雇用された。
P195:晩年の財政状況は亡き妻サスキアの墓を売らねばならぬほど悪化した。
フェルメール
P204:当時、親方画家として独立するには6年間の修業期間が必要。
カタリナ・ボルネスとの間に15子を設ける。
「カメラ・オブスクラ」
P213:1662年から2年間、最年少で聖ルカ組合長を務め、1670年から2年間、再び組合長に選ばれているが、珍しいこと。
P215:当時の未成年は25歳未満
P217:フェルメールの作品は死後20年経った1696年の競売でも高値で取引されている。
『盗まれたフェルメール
(ヴァトー)
P222:ルイ14世の葬列に国民は罵倒を浴びせた。
ピエール・クロザのコレクション→エルミタージュ美術館
P242:『シテール島への巡礼』は「プッサン派」に対する「ルーベンス派」の勝利を意味した。
P246:ロココは貴族や上層市民が楽しむために誕生した。