10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史―上 グレゴリー・クラーク

P16:食事の質や子供の罹患率の目安となる人々の身長は、石器時代の方が1800年当時よりも高かった。・・・一般的な狩猟採集民の食事や労働生活の方が、1800年の英国における典型的な労働者のそれよりも、遥かに変化に富んでいた。・・・1800年当時の貧しい人々は、狩猟採集社会に逆戻りすれば、よほどましな生活ができたのである。
マルサスの罠」
P22:破綻した現代国家を苦しめている、戦争、暴力、社会混乱、凶作、公的インフラの崩壊、不衛生などは、1800年以前は人口増加の圧力を弱め、物質的生活水準を高めてくれるものだった。対して、今日の平和や安定、社会秩序、公衆衛生、貧困層への所得移転などの実現は、繁栄の敵だった。
P26:静的な均衡状態を打ち破ったのは、1760〜1900年にかけて起きた「産業革命」と「出生率の低下」である。
P29:(産業革命時の)英国の強みは石炭産業や植民地、宗教改革、啓蒙活動などではなく、「社会の安定性と人口動態」という、偶然的な要素だった。・・・英国では中産階級的な価値観の浸透がどの国よりも進んだ。
P31:産業化以前の農耕社会では、一般に国民所得の半分以上は土地や資本の所有者に分配されたが、近現代の工業先進国では、彼らの取り分は一般に4分の一以下である。・・・産業化以前の経済で、純粋に力だけを提供していたものの、機械の導入によって瞬く間に失業した働き手は「馬」である。
P33:現代インドの綿織物工場に勤める労働者は、工場に居る間、「一時間当たり僅か15分」しか実際は仕事をしていない。・・・世界の賃金格差は見かけの賃金格差よりも現実にはずっと小さい。・・・米国の単純労働者の生活水準が、第3世界との自由貿易によって下落することが懸念されているが、時給の差が示唆するほどの重大な脅威が迫っている訳ではない。
P35:英国の北部と南部では、経済的な豊かさがWW1後に逆転した。アイルランドは今では英国と同じぐらい豊かになった。
P39:・・・1800年以前、現状に満足する者は敗れ去った。・・・この世界を代々受け継いできたのは、「幸せになるためには他の人々より多くのものを手に入れなければならない」という気持ちに突き動かされた実に「嫉妬深い人々」なのである。
P44:アンガス・マディスン
P45:紀元前13万年の10万人から1800年の7億7000万人の人口増加をもとに計算すると、1800年以前、女性一人当たりの存命の子供の数は、平均「2.0005」人。
P47:人口が不変であれば、出生率は死亡率に等しい。このとき、出世時平均余命は出生率の逆数である。死亡率が1000人当たり33人であれば、出世時の平均余命は約30年になる。死亡率が1000人当たり20人なら、平均余命は50年に延びる。産業化以前の社会で、長い平均余命を実現するには、出生率を制限するしかない。
P49:「最低生活費水準の所得」
P50:(イングランド)最も貧しい労働者だった単純農業労働者の労賃は、1400年には一日当たり小麦約8キロ分、1650年には小麦約4キロだった。この4キロという最低生存費水準の労賃ですら、最低限必要とされる一日1500キロカロリーを遥かに越える。一日小麦1キロで2400キロカロリーを摂取できる。
「収穫逓減の法則」:どの社会でも、技術水準に変化がないかぎり、労働力の供給量が増えるにつれて、労働者一人当たりの平均産出量は減少した。
P52:「限界生産物」の価値は賃金に等しい。
「技術曲線」
「賃金の鉄則」
P63:1780〜1834年の英国で極めて深刻だった社会問題の一つは、救貧法による貧困層支援財源として、農村部地主に対する課税負担が重くなっていったこと。
P65:「ウシカモシカの死亡例の75%を占める死因は、栄養不足」
P67:マルサス的経済の下では、国が重税を課しても、長期的には国民の生活水準や平均余命には影響しない。意外にも、君主の贅沢や浪費、無節制は、長い目で見れば、一般的な国民には何の損害ももたらさない。貿易の制限や経済活動を妨げるギルド等も、同様な意味で無害なものだった。 
 従って、1776年に『国富論』が出版された頃、英国ではマルサス的経済の法則によって国民の生活水準が決まっていたことから考えると、政府による課税の制限や非生産的な財政支出の抑制を求めたアダム・スミスの主張は、その大半が的外れだったことになる。人口増加によって社会が均衡点に戻るまでの短期間を別とすれば、適切な国家政策によって国を豊かにすることはできなかった。
・・・政府の政策が「悪質」だった場合、国民の平均余命は短くなるものの、物質面で国民はより豊かになれた。これに対し、良い政策、例えば一時期のローマ帝国や帝政末期の中国で行われた、凶作に備えて穀物を公に備蓄するなどの政策は、国民の生活を更に惨めにするだけだった。庶民の物質的生活水準がどのレベルにあったとしても、こうした備蓄政策によって、周期的な飢饉による死亡率が低下したからだ。古典派経済学者(特にスミス)は、現代の「小さな政府」の支持者から思想面での祖と考えられているにも拘わらず、皮肉なことに、古典派の主張は、それが唱えられた時代には殆ど無意味だったのである。
P70:マルサス的経済における「善」と「悪」(人口当たりの物質的所得を増減させるだけを基準に評価した)
「善」=出生率の抑制、不衛生、暴力、凶作、幼児殺し(間引き)、不平等な所得、怠惰
「悪」=多産、清潔、平和、公的備蓄、親への福祉、平等な所得、慈善、勤勉
P85:サハラ砂漠以南のアフリカ諸国は、農業に大きく依存しているが、農地の供給量は一定であるため、医療保険分野の進歩が物質的所得の減少という犠牲ももたらしている。
P101:身長は、子供時代の栄養状態と罹病率によって決まる。
P104:18世紀に西アフリカの沿岸部に駐屯した英軍兵士の半分は、最初の1年の内に死んだ。
P110:蚊と共に白人の船乗りがやって来るまでマラリアポリネシアには無かった。
P120:マーシャル・サーリンズは、「狩猟採集社会や移動農耕社会は、財ではなく余暇の多さで評価される、『原始的な豊かさ』を体現していた」と主張して物議を醸したが、この意見は概ね正しかったと考えられる。
P122:西欧では、ペストの流行が始まった1347年から、人口が再び増え始めた1550年にかけて、物質的生活水準は並外れて高く、現代の最貧国(?)の基準に照らしても豊かだといえるほどだった。
P126:1650年代の英国では、出生率は1000人当たり27人
P129:1)産業化以前の西欧の結婚パターン:女性の平均初婚年齢が高く、一般に24から26歳。2)生涯独身を貫く女性が多く、女性全体の10から25%を占めていた。3)婚外子出生率が低く、出生児全体の3から4%に過ぎなかった。
P134:中国遼寧省では生まれた女子の20から25%は間引きによって死亡したと推定される。・・・穀物価格が上がると出生率が低くなる。女子は第二子以降よりも第一子の方に多い。・・・檀家の法事記録から日本飛騨地方における1800年頃の出生率は1000人当たり36人。
P136:ローマ帝国支配化のエジプトでは離婚女性はたいてい再婚出来ない。
P141:17世紀前半のイングランド既婚男性で遺言書を書いた2300人の内、存命の子が全くいないのが15%、8人以上いたのが4%
P143:ロンドンのあちこちで、教会に属さないフリーランスの牧師が、正式な婚姻告示や公開の結婚式なしでも、合法的に結婚を成立させていた。・・・人気のあった挙式場所は、フリート監獄とその周辺の「ルール区域(開放拘留区域)」で、1694年から1754年には、年間平均4000組の結婚式が行われた。
P147:1620年代サフォーク州では16歳以上の男性39%が検認済みの遺言書を作成した(とみられる)。・・・遺言資産の平均額は1630年代物価で換算すると、235ポンド。しかし、資産額の中央値は100ポンドに過ぎない。(当時大工の年収18ポンド、肉体労働者で12ポンド)
P148:表4.5:・・・肉体労働者の中には一部のジェントリを上回る資産を持っている人々がいた。・・・財産と出生者数の間には強い相関がある。
P153:サミュエル・ピープスの日記(1660〜69年)
P157:1580年〜1800年の英国では、1歳までに18%が死亡し、15歳まで生き延びる子供は69%で、後は37年は生きられると考えてよかった。
P158:死亡率は、一般に農村部より都市部が高かった。都市部の死亡率は極めて高く、農村部からの絶え間ない流入がなければ、どの都市も地上から消えたしまったほどだった。例えば、1580〜1650年のロンドンでは、死亡者1人当たりの出世者数は0.87人に過ぎず、移住者がなければロンドンの人口は年に0.5%の割合で減少した筈である。・・・18世紀後半のロンドンにおける出生時平均余命は23年で、1800年になってもロンドン市民は自力で人口の再生産が出来なかった。・・・18世紀のロンドン市民よりローマ帝国支配化のエジプト都市住民の方が、平均余命は長い。
P162:223年イタリア南部カヌシウム市会議員100人の名簿の代替わり情況から議員25歳時の平均余命は32〜34歳。・・・ローマの法学者ウルピアヌスが作成した表では遺言作成者が終身年金を誰かに遺贈する場合に(一般には解放奴隷に与えられた)、遺族から年金が支払われる期間の目安が示されている。これによると、22歳時の平均余命は28年。
P169:・・・遅い時期の流行でも発病力が衰えなかったことは、欧州でのペストの消滅が、いまだに医学的な謎とされる理由の一つである。産業化以前のペストについて多くのことが解るのは、それより後の時代にアジアでペストが流行したからである。
P171:1347〜1660年のペスト流行期、欧州では物質的生活水準が大幅に向上し、しかも平均余命の短縮は僅かに留まった。
P176:1602〜1795年、オランダ東インド会社は約100万人を雇用したが、半分は勤務期間中に死亡した。
P183:(ポリネシアでは)19世紀前半の情報によると、生まれた子供の3分の2から4分の3は、誕生後すぐに殺されていた。「現地では女性より男性の数の方が多かった」
「白死病」
P190:マルサス的経済の時代では、最も貧しい人々は、概して人口の再生産に失敗していたことが明らかになっている。その一方で、産業化以前の英国社会では、常に人口が下方の階層へ移動していた。富裕層の多数の子供は、一般に社会階層を下ることを余儀なくされた。・・・1870年以降になると、富裕層の出生率は低くなり、社会内では常に上方移動の傾向がみられ、たいていの親は子供が社会階層を登るのを目にする。
P197:富裕者の息子は、妻の持参金も含めると、最終的には実父と義理の父の遺産の半分を、それぞれ相続するのが一般的だった。
P203:1480〜1679年のころのイングランド貴族は、人口の再生産に殆ど失敗していた。暴力による死亡が減る1730年以降まで、貴族の生殖成功率は庶民を超えられなかった。
P207:(表6.3)狩猟採集・自給自足社会での男性の死因:ジャン・ギレーヌ・ザミット−新石器時代フランスでは死者の3%は暴力によって死亡または負傷した。殺人による死亡率は1000人当たり1.4人になる、アチェ族ー森林時代1900年〜70年の殺人は1000人当たり15人、ヤノマモ族ー1970〜70年:3.6人、ニューギニア(ゲブシ族):6.9人、英国1999年:0.01人、米国1999年:0.07人
P208:狩猟採集社会では集団間の争いを含む殺人が、男性の死因の7〜55%、平均で21%を占めている。
P209:中世イングランドでは、不法に殺された人の財産は国王に返還されることになっていたため、国王は率先して殺人事件を見つけ出そうとした。→検視制度の確立。
P213:現代の狩猟採集社会や移動農耕社会における事故や暴力による男性の年間死亡率は、一般に1000人当たり3〜18人程度である。極端な例はアチェ族で、男性の死因の大半は暴力。
P214:ナポレオン・シャニオン−(1987年)ヤノマモ族の男性は、いずれの年齢でも、殺人経験のある者の方が、無い者より子供の数が多かった。
P222:鐙は中国では3世紀
P230:1750年当時の世界経済では、土地一単位当たりの任意の人口水準における、土地一単位当たりの産出高、西暦1年当時に比べて24%しか増えていなかった。世界が極めて長い間、マルサス的経済の時代から抜け出せなかったのはこのためである。
P235:カナダ圏イヌイットはチェーレ文化の多くを16〜18世紀に失ってしまう。
P249:限界税率の上昇は、労働の実態を、記録に残らない「闇経済」的な活動に変える作用がある。
ピーター・リンダート「フリーランチ・パラドックス
P253:政府が「インフレ税」による収入の最大化を図ると、手放される貨幣の用途を通じて、「死重的損失」と呼ばれる社会的コストが発生する。
P255:産業革命以降の英国は、通貨管理能力の面では進歩どころか後退してきたといえる。・・・ローマ帝国支配下のエジプトでは、1世紀から3世紀半ばにかけて小麦価格が2倍に上昇したが、このインフレ率は、年間に直せば0.3%にも満たない。
P257:ジェフリー・ウィリアムソン−フランスとの「第二次百年戦争」により、1820年代に英国の累積債務がGNPの2.5倍に及んで、民間投資がクラウドアウトされたことは、産業革命期の経済成長を大幅に遅らせた。
P260:14世紀イングランドの殺人発生率は1000人当たり0.12人、これは現代世界でも高水準。
P262:1620年代、イングランドの遺言作成者の財産や地位を、1人の息子が全て継承するのは極まれだった。大家族の息子らは、社会的地位を維持するために、自力で財産を蓄えなければならなかった。これは、子供の数や遺産額という偶然的な条件次第で、人々が常に社会階層を上下していたことを意味する。・・・ロンドン市内の遺言作成者の6割には、息子が1人もいなかった。このため、ロンドンでは、職人、商人、法律家、行政官などの職業の人材は、農村部から社会階層を越えて流入する人々によって補充されるのが常だった。
P264:1292年、パリ平民世帯の課税記録では、外国人世帯は全体の6%を占めている。・・・1440年、イングランド在住の外国人に課せられた人頭税記録から、当時のロンドン成人男性15000人に対し、帰化していない外国人成人男性の人口は1400〜1500人と前者の10%を占める。
P274:「地代負担」の収益率:地代負担とは土地・家屋を担保とする、永久的に固定された名目債権、所有農地と地代負担の収益にはカトリック教義のもとで「高利貸し」のレッテルが貼られなかった。土地や地代負担の多くの所有者は教会だったからだ。
P278:「時間選好」−米国人6歳児の時間選好率は一日当たり3%、月利150%の利子を貰えるときだけ、ご褒美を後回しにできる。時間選好率の高い子供は成長後の学力やSATの点数も低い。・・・マダガスカルのミケア族は時間選好率が並外れて高い(労働一時間当たり74000キロカロリーの収穫があるトウモロコシの移動耕作よりも、1800キロカロリーしかないイモの採集を選好する)、タンザニアのハザァ族も時間的に遅れて発生する便益には無関心「現時点での採集を容易にするために、枝全体を木から落とし、将来の収穫が失われることは考慮されない」・・・ブラジルのビラハ族にとって将来の出来事や便益は関心の対象にはならない。
「エイジ・ヒーピング」→H=5/4(X−20)
P288:「カタスト」1427年、フィレンツェ人口の23%は自分の年齢を知らなかった。・・・古代の墓碑上の年齢は水増しされている。人口の3%が100歳以上で死んでいる。裕福な古代ローマ人の子や子孫は故人の墓碑に刻むその長寿の非現実性を認識できなかった。
P291:一般裁判所に起訴された被告が、聖職者特権(教会裁判所でしか裁判にかけられない)を行使できるかどうかは、聖書の一節を読む能力の有無で判断された。
P292:1159年カンタベリーのジェルベーズはヘンリー2世はトゥールーズの戦費に18万ポンドの特別税を課したと書いたが、英国大蔵省の記録には8000ポンドとなっている。・・・当時の学者ウェンドーバーのロジャーは、1210年のオックスフォード大学には3000人の修士と博士がいたと記述しているが、後の同大学の歴史からみて実際は300人以下とみられる。・・・タキトッスにもフィデナイでの剣闘試合での競技場木造観覧席倒壊の死者5万人があるが、同様の倒壊事故の諸事例から100人に満たなかったと考えられる。
P293:技能に対する報酬が最も高かったのは、ペストの流行が始まる1349年以前の古い時代。
P296:18世紀のロンドンでは、ベツレヘム精神病院の患者の振る舞いを眺めることが人気の娯楽のひとつだったが、訪問者の騒々しい態度を見かねた病院の管理者らは、1764年に警官とその助手を4人ずつ雇い、休日の見物客をパトロールさせることにした。1770年になると、病院を訪問できるのは、病院管理者から入場券を発行された者に限られるようになる。
P301:イングランド大蔵省は16世紀になっても記録にローマ数字を使っていた。商業分野では13世紀にはアラビア数字の使用が一般化している。
P303:1830年代の農業労働者集団内の所得ピーク年齢は20歳、現代アチェ族は40歳、農業と違い狩猟は習熟に時間のかかる複雑な活動。

10万年の世界経済史 下

10万年の世界経済史 下

10万年の世界経済史―下 グレゴリー・クラーク
P9:産業革命の本質で”産業的”な面は全く無い。
P11:現代の農業従事者は米国2.1%、仏国3.3%、英国1.2%
P12:「生産活動に関する社会の知識ストックを増大させることへの投資」
P14:産出高Y、労働量L、物理的資本量K、土地の広さZ、生産の効率性の水準A
・・・投資を増やすことで経済成長を速めようとするのは、コスト効率の悪いやり方・・・
P16:1800年以前には所得の決定に圧倒的に重要な要因だった、一人当たりの土地面積が近代世界では経済成長にとって重要ではなくなった。・・・英国国民所得に占める農地の地代の割合は、1760年に23%、2000年に0.2%まで下落している。この下落は都市部の土地賃貸価値の上昇で部分的に相殺されてはいる。
P18:産業革命以降、物理的な資本の蓄積は、1人当たり産出高の増分の4分の1
にしか直接影響していない。あとの4分の3は「効率性の向上」から生じたものだ。
「残差」、「我々の無知の度合い」
P24:技術革新による効率性の向上は、あらゆる経済成長の真の要因であり、さらに物理的資本の増大要因でもある。物理的資本が近代的な経済成長の独立した要因であるかのように見えるのは、錯覚にすぎない。・・・資本ストックの増大と効率性の向上は、自由主義経済の下では常に密接に連動している。(図10.4)
(図10.5)
P28:・・・効率性の向上をもたらす知識資本への投資は、「近代的な経済成長の大半をほぼ完全に説明できる要因」にとどまるものではなく、近代のあらゆる経済成長の要因なのである。
「外因的経済成長説」「複数均衡説」「内因的経済成長説」
P40:「決闘裁判」−神は正義ある戦士に味方する→決闘代理人は勝てば50マークを得る。1287年当時の労働者年収が3マーク未満。
1179年「和平令状」−被告人は訴訟の解決手段として「陪審」か「決闘」を選ぶことができた。決闘裁判は形式的には1819年まであったが、1300年代には権利が行使されなくなり陪審裁判になる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/t-shinya/yowa38.html
P41:イデオロギー経済的利益が対立したときは、イデオロギーの方を経済にすり合わせて、対立を解消するのが一般的なのだ。
P42:1300年までに欧州キリスト教国家では有利子貸付について次の例外事項が認められた。
1)共同経営による利益、2)地代負担、3)年金:年金が認められたのは支給総額が不明だったので、ウィンチェスター修道院の院長代理職は年金を販売した、4)放棄利益:貸し手は貸付によって放棄した利益に対する補償金を徴収することができた。5)為替リスクに対するプレミアム:ある通貨の貸付が行われ、その支払いが別の通貨でなされるとき、為替リスクカバーのプレミアムが設定された。貸し手がこの抜け道を利用して、「一度の取引に複数の外貨で二度の貸付をする」旨の契約を結び、為替リスクを回避しながら、プレミアムを頂戴することもあった。
P44:・・・(高利貸しで)違法とされたのは、一部の種類の債券発行による資金調達だけ、これをユダヤ人に許可した。・・・1341年、エドワード三世の債務不履行で欧州三大銀行のうち二銀行が倒産している。
イスラムでは「二重販売=借金時に法外な値段の物品を購入させられる」、「パートナーシップ」
P45:ヘンリー八世のときに合法化された高利貸しだが、利子率の上限は法で定められた(これは契約書の貸付高を水増しして回避が容易で無意味)。なお、王室は信頼の低い借り手としてこの金利制限の対象外とされ、1710年頃まで遥かな高金利を払っていた。
P48:1788年に豪州に到着した英国人はアボリジニ社会には300以上の言語があるのを確認した。人口5000人のタスマニアだけでも5つの言語が存在した。つまり、技術進歩が実現しなかったアボリジニ社会は300以上あったのである。
P51:(図11.2)奴隷解放の意思決定分析
「制度学派」
P53:西暦1年ごろイタリア半島には膨大な奴隷がいたが、奴隷解放の動きは全く無かったのに、西暦200年にはイタリアに奴隷は殆どいなくなっていた。・・・中世イングランドでは1086年当時は奴隷や農奴が人口の過半数を占めていたが、1500年までには、全ての奴隷や農奴が、何らの社会運動もないまま解放された。
P54:ゲーリー・ベッカー、ロバート・ルーカス「マルサス的経済の世界では、親は多くの子供を持とうとし、それぞれの子供には僅かな教育しか受けさせなかった。産業革命以降の先進工業国における社会変化の一つは、平均的な女性の産む子供の数が、5〜6人から2人以下まで減ったことである」→欧州、米国での人口構成が変化したのは1890年頃、産業革命より120年遅い!
P55:(図11.3)産業革命における技術革新の需給関係
P68:生産の効率性は「産出量一単位当たりの平均価格に対する、生産要素(資本、労働力、土地)一単位当たりの平均費用の比率」として、簡単に概算できる。つまり、生産の効率性をAとすると
 A=産出量一単位当たりの平均費用÷産出量一単位当たりの平均価格
と表せる。
生産要素への支出額は生産物の価値に必ず等しくなるため、効率性の高い経済では、生産物の価格は生産要素の価格より相対的に低くなる。
P71:1760〜1860年代にかけて、綿花を布に加工する作業の効率性は14倍に上昇し、年間の効率性上昇率は2.4%に達した。1ポンド綿を布にするのに18時間から1.5時間まで短縮。
P73:(表12.2)産業革命期の英国でさえ技術革新に対する報酬提供の面では、市場は巧く機能していない。ジョン・ケイ:飛び杼、ジェームス・ハーグリーブス:ジェニー紡績機、リチャード・アークライト:水力紡績機、サミュエル・クロンプトン:ミュール精紡機、エドマンド・カートライト:力織機、イーライ・ホイットニー:綿繰り機、リチャード・ロバーツ:自動ミュール精紡機
P74:19世紀の富裕層が書いた遺言書を見ると、英国で1860年代に死亡し、50万ポンド以上の財産を残した379人中、繊維業関係者は17人(4%)だけ。繊維業の産出高は国民総生産の11%で産業革命期の効率性上昇の大半は繊維業の発展によるものだった。・・・この技術革新によって圧倒的に大きな利益を得たのは、起業家ではなく、賃金労働者や外国の顧客だった。・・・1700〜1860年代に石炭産出量は20倍に増えたが、石炭産業で個人が大きな富を得ることはなかった。
リチャード・トレビシック
P76:産業革命期の英国では石炭、鉄、鉄鋼、鉄道用客車などの産業はみな、競争が極めて激しかった。これらの産業での技術革新は、特許制度による保護を殆ど受けられず、新技術は生産者から生産者へすぐに流出した。革新率が高まったのは報酬が大きかったからではなく、技術の供給が増えたからなのだ。・・・産業革命期の技術革新において特許制度自体は何の役割も果たしていない。
P84:「英国の生産性上昇率が高まった」ことと「1750〜1870年にかけて、英国の人口が予期しない形で、生産性とは関係なく急増したこと」の二つが偶然重なった。
18世紀になると女性の初婚年齢は下がり始める。
P92:英国が「世界の工場」になった要因は、技術進歩よりも、食料・原料の輸入の必要性。
P102:少なくとも産業化以前社会では、利益追求は技術革新の動機としては比較的弱いものだった。従って、総生産の上昇率で革新率を評価するのは、適切ではない。
P103:生物による生産体制では、技術革新がなければ効率性の上昇率はマイナスになる。雑草や病原体は常に、自然淘汰の無差別的な力を通じて、作物や動物の生産効率を低下させる方向に作用する。・・・また、生産を改善するための実験が困難。
P108:ケネス・ポメランツ『大いなる分岐』−石炭と植民地
P113:(日本)1700年には書籍出版部数一万部、1868年の識字率は男40〜50%、女13〜17%
(インド)1901年の識字率は男9.8%、女0.6%
(中国)1929年〜1933年の識字率は男30%、1800年で男15%程度
P119:(表13.1)1300年〜1750年の時期に、マルサス的経済の制約をより強く受けていたのは、中国や日本ではなく英国の方である。1300〜1750年の人口増は英国5.9→6.2、日本6→31、中国72→270
P120:日本で人口が急増した17世紀に武士階級の養子縁組の確立は26.1%、18世紀には36.6%、19世紀に39.3%
P130:リカードは『経済学および課税の原理』で将来的には人口増加に伴い賃金は最低生存費水準に留まり、地代は上昇し、資本収益率は減少すると予想した。ところが、その後の英国は、全く異なる道を辿った。
P131:現代の英国における農地1エーカーの農地の実質収益率は、13世紀前半の水準と殆ど変わらない。EUの共通農業政策による農家への補助金が無かったら、現代の農地の実質収益率は、中世最盛期の水準を間違えなく下回るだろう。
P134:産業化以前に女性が力仕事につくことへの反対はほとんどない。中世の屋根葺き職人の助手が女性であるのは珍しくない。・・・男女間の所得格差は縮小した。
P144:産業革命によって、富裕層と貧困層の間の格差は大きく縮小した。
P145:現代米国の平均男性は、一日2700キロカロリーを摂取、1860年代の英国農場労働者は4500キロカロリー
P147:リカードは1821年に”技術革新による失業”が生じるモデルを発表したが、この説は、最低生存費水準の固定賃金を得ている労働者のみにもとづくものである。資本と労働力が十分に代替可能であるかぎり、どのタイプの労働者の限界生産物も常にプラスになり、従って完全雇用は可能であることが、後に確認されている。しかし、このように雇用を経済理論によって一般的に保証しても、実際にはあまり意味は無い。賃金の実際の水準がどうなるかについては、全く保証されないからだ。・・・英国で労働力としての馬の数がピークに達したのは1901年で、当時は325万頭が労役を担っていた。長距離輸送は列車、駆動力は蒸気機関に取って代わられていたものの、耕作、荷物や人の短距離輸送、炭鉱、戦場への武器の運搬、馬は引き続き活用されていた。19世紀後半に内燃機関が発明されると、1924年には200万頭を下回る。極めて低い賃金水準でなら、馬に仕事を保障し、賃金を払い続けることは常に可能だった。しかし、そのような少ない稼ぎでは、馬の餌代にも見合わず、交代要員になる次世代の馬を育てるにも到底足りなかった。
P149:現代経済で、単純労働ですら比較的高く評価される理由は、今のところ代用できない、あるいは代用するとコストが掛かり過ぎる特性を持っている。機械よりも「器用」なところが未だあることと「交渉能力」の二つ。
P155:・・・所得の増加に伴って子供の数が減るのであれば、子供は経済用語で言えばジャガイモなどと同じ「下級財」だということになる。
P159:19世紀後半の人口転換期のずっと前から、出生率抑制は可能だったのである。それ以前の時代に出生率が抑制されなかったのは、手段よりも動機の問題だった。・・・ある社会の各所得階層で、所得と出生率の間に負の相関関係が見られるのは、人口転換期だけなのだ。
経済史研究者は1839年と1846年を「鉄道ブーム」の年と呼ぶ。
P167:・・・技術進歩のペースの上昇と、企業による平均以上の利益創出の間には、本来何の関係性も無く、技術進歩の恩恵の殆どは消費者にもたらされた。
P177:(表15.2)地中海海域での情報伝達速度
ローマ帝国支配化のエジプトにおける法的書類には、暦日と在位皇帝の名の両方が記載されている。ローマで新しい皇帝が即位してもエジプトの法的書類には、前の皇帝名が記載されていることがあり、この期間は、情報の伝達期間を表している。この平均所用期間は56日と推定され、平均速度は時速一マイルだった。
P180:1840年の定期船だったブリタニア号は225トンの積荷で大西洋を横断するのに、640トンの石炭を必要とした。→多段膨張機関と表面凝縮器の開発で1830年には一馬力に4.5キロ必要だった石炭が1881年には0.9キロまでに減少した。
P183:(表15.5)1907年における英国からの綿製品の輸送コスト
P185:1660年代のフランス等は、製鉄業を立ち上げるために、スウェーデン人製鉄労働者の一団を拉致した。
「リング紡績機」
デービット・サスーン
マクマンション
P212:前近代に原因不明の病気治療に瀉血を指示した様に、現代の医師らは世界銀行国際通貨基金などのカルト組織を通じて毎年同じ処方を続けている。
各国家間を資本が容易に移動できる世界では、資本量そのものが、各国の効率性の違いに”対応”して決定される。効率性の高い国は多くの資本を集められる。この効率性の違いは、各国間の所得格差のほぼ全てを説明できる。
P217:(表16.1)資本市場が巧く機能していなかったと考えられる唯一の国は、皮肉にも世界一豊かだった米国である:19世紀後半米国では州際銀行に対する法規制の結果、資本が不足気味だった一方で、最貧国のインドでは安価に資本を調達できた。
P219:(図16.2)1910年には、繊維など主要産業の資本財は、世界中同じ値段で入手できるようになっていた。・・・天然資源の不足は工業化の足枷ではなくなっていた。
P224:(表16.2)1910年の綿織物産業のコスト:
P239:低賃金国の衣料工場から高賃金の米国市場までジーンズを輸送するコストは一着当たり0.09ドルで、これは卸売り価格(8ドル)の1%程度に過ぎない。
P242:1950年代、インドや英国の繊維業者がウガンダケニアに設立した工場は、保護関税があったにも拘わらず、全く利益を出していなかったのが判明している。
P246:・・・世界史に関する奇妙な事実とは、1800年以前の世界については理解がかなり進んでいるのに対し、それ以降の世界を理解するのはますます難しくなっていることだ。
P249:1929年『繊維学会誌』に掲載「ランカシャーの工場では1人ですむところをインドでは3人配置しなければならない」 1930年はアーノ・ピアース「インドの労働者は効率の低さ、無駄の多さ、規律の無さ等の点で、中国人労働者の次に位置する」
P251:繊維産業に関する現代の見方はこうである。貧しい国では賃金が安い為、経営者の質は一般に低かったものの、機械一台当たりの労働者を大幅に増やすことで、機械一台当たりの産出高を先進国並みの水準まで引き上げることができた。しかし、それよって、労働者一人当たりの産出高はいっそう減少した。
P255:ドフィング(表17.1)米国、英国、インドにおける、一時間当たりの糸巻きの交換数:・・・1920年代インドの(リング紡績工)労働者は、労働時間の18〜23%しか実働していなかった。
P265:バドリ:1920年代にはボンベイの熟練織工は自分の「代理人」を雇った。
P266:所得格差:1)「マルサスの罠」の中にあっては、労働者の質の違いは、各社会の人口一人当たりの平均産出高に影響はない。のんびりした人々の社会も、勤勉な人々の社会も、豊かさに差は無かった。産業革命以降、一人当たり所得がマルサス的経済の制限から解放されると、社会の潜在能力の違いは、人口密度よりも、一人当たりの所得の違いとして表れるようになった。2)近代医学の登場で、サハラ以南における最低生存費水準の賃金は大きく減少した。アフリカ最貧国の一部では、所得水準は産業化以前の基準から見ても低いが、平均余命は産業革命以前の水準をいまだに上回っている。
3)質の高い労働力に対する賃金プレミアムが増大した。大規模分業ではその過程でミスは以前より許されなくなった。
P271:手織産業へのインド政府の保護政策:現代のインドにおける手織機部門の競争優位は、「近代的な技術が導入されると、労働力の質の各国間格差がいっそう拡大する」との考え方を裏付けるものである。
P281:貧しい国々に提示すべき経済成長のモデルは、欧米諸国には見つからない。・・・援助金の直接の提供ですら、経済成長を刺激する効果はないことが解っている。・・・欧米が実行できる支援策で、第三世界貧困層の一部に確実に利益をもたらすのは「移民」の自由化である。過去記録から解るように、(特に所得水準の低い国の)移民は、移住によって所得水準を大幅に上昇させることができた。
P282:「幸福度」:人口一人当たり所得の水準別で見ると、幸福度は上位10%で最も高く、下位10%では最も低い。・・・社会全体の所得水準や平均余命、健康度が改善されても、それが幸福度の増大につながっている証拠はない。・・・重要な問題は、我々が幸福度を左右するのが、自分の生活の絶対水準ではなく、他の基準的な集団と比較した場合の相対的水準であることが、十分に立証されていることである。・・・人間は生まれつき満足すること知らず、自分の分け前を競争相手のそれといつまでも比較し続け、自分が優位に立ったときだけ幸せを感じる生き物なのだ。・・・富裕層への課税を増やせば、所得格差は縮小するかもしれないが、社会全体の幸福度が高まることはないだろう。
P293: