栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

栽培植物と農耕の起源 中尾佐助
P4:疑問の余地のない野生原種としては「イネ、二条オームギ、一粒コムギ、エンマーコムギ」がある。
P5:野生種の脱落性−品種改良の初期に非脱落性に改良か?
P6:シード・ビーター、未熟刈り(穂刈り)→九州のヤキゴメは籾のまま蒸してから臼で搗く、これはアルファ米で、水を加えるだけで食べられる。ヒエの精白法の白蒸・黒蒸は、蒸してから精白される。
P8:インドにおけるコメ加工の主流はパーボイル加工−籾を半煮して天日乾燥後に貯蔵する。必要なだけ足踏みキネで精白する。精白された白米は外観上日本の場合と区別できない。パーボイル加工されるコメの割合はマドラス州40%、ケララ州95%
カーシー・ミレット−東部ヒマラヤ低山地野生種の成熟粒を非脱落性にした。外観はメヒジワに類似。
P10:野生のイネは出穂(成熟時期)がひどく不揃いである。
穂刈りから根刈り−日本では奈良期まで穂刈り、平安期から根刈りになった。欧州でムギ収穫が穂刈りから根刈りに転換したのは11-13世紀で、このとき収穫用の大鎌が登場した。育て方よりも収穫法が優先。
P14:インド・アフリカなど極度の多民族国家、多言語国家でも農業文化基本複合は二つか三つがせいぜい、農業文化基本複合は石器時代以来全世界に四系統しかない。
P17:カール・サウアー、G・P・マードック
(2)根栽農耕文化
(バナナ)
P22:ムサ・アクミナータは、単為結果性→雌性不稔性→完全不稔性の選抜を経て優良な二倍体品種群を得た。
中南米の企業栽培のバナナ品種グロス・ミッチェルはムサ・アクミナータの同質三倍体である。台湾バナナも同じムサーアクミナータの同質三倍体品種。
P24:ムサ・バルビシーナ
フェイ・バナナ群の染色体数は10
P26:バナナが栽培かされた年代を、私は5000年以上昔と推定している。
P27:→四倍体選抜へ
(ヤムイモ)
P27:昭和16年当時ボナペ島民の食生活はパンの木とヤムイモの半々。
P28:ダイジョ=ディオスコレア・アラータ
P32:離乳食、弁当、宴会用などを常日頃得るためには、ボナペの島民は20種類以上を一人で栽培する必要があり、それで島中に200品種がある。
P33:(ディオスコレア・ブルビフェラの様に)過去に利用され伝播したが、後に見捨てられ、野性的に残存した栽培食物を「レリクト・クロップ」と呼ぶ(ことにしよう)。
生イモを磨り潰して、すぐ水晒しするサゴヤシやクズの澱粉をとる方法は、人類の食物史では特筆すべき技術的成果である。
P35:マレーのヤムイモの標準名はウビ(ubi)、この呼び方はマダガスカルからハワイに至る海域で見出される。
(タローイモ)
P35:サトイモ、アローカシア・インディカ、キルトスペルマ、スキソマトグロッティス
サトイモはバナナやヤムイモのマレー半島附近の起源地とは異なり、少し西方になるビルマ・アッサム附近。
(サトウキビ)
P39:東南アジア熱帯域ではサトウキビは主食として重要。・・・サトウキビの優良品種群(ノーブル・ケビン)の出発地はマレーシア地域。ビタミンに富む蔗糖はバターに比較されるべき製品といえる。
P40:サッカル・ローバスタム
P43:ミクロネシアではウコン粉末の輸送が航海の目的でもあった。
P47:一年間に一週間労働すれば、その年の食料が確保できるのはサゴヤシだけである。
P47:パンの木が20本も家の周りにあれば半年は苦労なく食べていける。そのためには、成熟期の早晩のある各品種が必要なので、パンの木だけで莫大な品種がある。・・・パンの木の魅力はバウンティ号反乱事件の要因ともなった。
P52:根栽農耕文化の特色
1)無種子農業−作物の繁殖は根分け、株分け、挿し木で行われていて、植物学的に言えば栄養繁殖のみで行われている。・・・この無種子農業は、人類の知識が未だ、植物の種子繁殖を認識できない段階のときに開始されたものであろう。
2)倍数体利用−バナナやパンの木は三倍体を使い見事な種無し果実を得ている。ヤムイモの主力ディオスコレア・アラータの品種は大部分八倍体であるし、ヤムイモの中には十四倍体まである。サトウキビには十四倍体まで各種の倍数体がある。・・・これらは栄養繁殖という農業方式が倍数体利用に有利な条件を与えているのが根本にあるが、倍数体を選抜した栽培者の能力と感覚の鋭さに拠るものである。
3)マメ類と油料作物を欠く−栄養バランスからいえば、農業外の補助食料を必要とした欠点を持つ。
4)掘り棒の農業−この農具では自然と点植え式になる。
5)裏庭から焼畑−初めは「キチン・ガーデン」から−焼畑はこの根栽文化で発達しはじめ、10年1週の輪換式焼畑農業メラネシアの大島で普及している。この段階まで進むと、焼畑は休閑期を潅木、樹木でやる輪作体系へと進んでくる。
6)ハトムギの利用まで進む−
P58:(マードックによれば)紀元前1000年ごろ、東南アジアの根栽文化は強力な農耕方式としてアフリカ東岸に到着した。・・・カメルーン附近でバンツー族がこの複合文化を受け取り、爆発的に発展した。コンゴ川に沿った熱帯雨林は、東南アジアから渡って来たバナナ、ヤムイモ、タローイモ、サトウキビの久しぶりの最適地である。この森林の中で狩猟採集していたブッシュマンの住むコンゴ川流域は、たちまちバンツー系に占領される。これはちょうどキリスト誕生の頃のこと。
(3)照葉樹林文化
(クズとワラビの不思議)
P60:クズはメラネシアでは普通に見られるが、その生態は「レリクト・クロップ」状態。台湾とフィリピンとの間にある紅頭嶼に住むヤミ族はクズを栽培している。・・・ワラビは近縁種を含めると全世界で野生しているが、その根から澱粉を採るのは、紅頭嶼、シナ、日本だけである。
P64:日本の農耕文化は直接的に照葉樹林文化の一端となるものである。・・・照葉樹林の中で一番古いイモはマムシグサ(天南星)の類。このマムシグサ類の食用化にあたっては、毒消し法に加熱工程が入っており、直接イモを砕いて水晒しする方法でない点は最も原始的な利用法であることを示している。
(水晒し技術の発達)
P65:クズやワラビの食用化には水晒し技術の完成が前提になる。流しだした澱粉を沈殿させて集めるには「桶」が必要である。この技術を獲得すると、水さえあればドングリ類、トチノキの実が容易に食糧化しうる。
(雑穀を受け取る)
P66:照葉樹林文化は熱帯降雨林の根栽文化から、タロイモの一部サトイモを受け取り、ヤムイモでは温帯性のナガイモを雲南省あたりで栽培化し、日本まで伝播させたが、それ以外の野生のイモ類の栽培化にはあまり成功していない。照葉樹林文化は、雑穀類やムギ類を栽培する農業を西方から受け取り、それを吸収して急速に成長する方向で特色を生み出してくる。特に雑穀栽培を主とするサバンナ農耕文化複合の強い伝播を受けて、その影響下に極めて特色ある農耕文化複合を形成してゆく。
その文化複合は純石器時代の採集経済から栽培農業、青銅器使用の段階まで連続してきたが、鉄器時代に入る頃には照葉樹林文化の独立性は死滅してしまった。それはシナ、インドに高度の文化を持つ強力な古代帝国が成立した一つの余波の現象であろう。
照葉樹林文化の遺産)
P68:「茶、絹、ウルシ、柑橘、シソ、酒」が代表的文化遺産である。これらはヒンデゥー文化には見られない。
P69:”どの民族も主食の穀類から作ったそれぞれ酒がある”はインドでは通用しない。・・・古代インド人には柑橘類は知られていない。
(商用樹林の茶と酒とシソ)
P72:アマチャ型の利用−四川省のガマズミ類、「シナ西南、ブータン、日本、シッキム」等、シナ西南部からヒマラヤにかけて植物が茶として飲用されている。これらは照葉樹林文化が樹葉(潅木または喬木で、草本性のものはない)を茶として飲む習慣の残存が大きいと判断すべきである。
日本茶(無発酵)→ウーロン茶(半発酵)→紅茶(発酵)→レーペット茶(強発酵)
・ビールは麦芽酵素澱粉を糖化するが、照葉樹林文化では麹というカビの塊を使ってその中の酵素で糖化する。
P73:中国語で「餅」は小麦粉製品の通称→月餅
P74:餅麹の原型はシコクビエから作られた。
P75:照葉樹林文化の中心地域はシナ西南部、この地域は「ロロ系民族=イ、ニ、アヒ、ロロポー、リス族他」が占める。言語学上はチベットビルマ語系に属す。
(4)サバンナ農耕文化
(雑穀)
P78:西洋には「ムギ」に対応する言葉がない。・・・雑穀という穀類の通有性をみると、その全てが夏作物であるのが第一の特徴。・・・手短に言えば雑穀とはモンスーン農業の穀類である。
P81:ニジェル川中流の「フォニオ(メヒジワの近縁)」→カーシー・ミレット、マナ・グラス
P84:サバンナ草原では最初に種子のなかでも、澱粉質の禾本科植物を選び出して、農業が始まった。その中から油を採る作物も栽培化する発展を遂げる。
(雑穀農業の発生地)
P85:ニジェル川流域・・・「テフ」と「シコクビエ」、イモチ病はもとはシコクビエの病気だったか?
P87:シコクビエはサバンナ農耕文化の指標作物−サハラ以南の全てとエチオピア、インド、東南アジア、シナ、台湾、日本にいたる地域にこのシコクビエは必ず存在するが、地中海、欧州つまりムギ作専門地帯には見られない。
デカン半島西部乾燥地帯の「キビ」、インド西北部から西パキスタンに渡る乾燥地帯の「アワ」、アワはインドの古典では「テナイ」の名でイネと等しく登場している。
P90:根栽農耕文化はイモや果実類を栽培したのに、周りにあるマメ類は一つとして栽培しなかった。・・・マメが食糧リストに入るのは鍋の存在、土器の発明以後。
果菜類というもの)
P98:雲南省の「ホジソニア=ラード・フルーツ」
(油糧作物の出現)
P99:ゴマ、油ヤシ、シアーバター、ヒマ、ニガーシード
P101:油糧作物はアフリカ起源の夏作グループと、ムギ農耕文化の冬作グループの油糧作物があって、他に一つだけアメリカ起源の夏作のヒマワリが見られる。
P102:サバンナ農耕文化にはイモ類がない。
雑穀=シコクビエ、マメ類=ササゲ、油糧=ゴマ、果菜類=ヘチマとヒョウタンこれ等全部がアフリカ原産の可能性が高いことは、サバンナ農耕文化の第一発生中心地がアフリカであることを推定させる。・・・果樹=タマリンド、ヤシ類=パルミラヤシ
P107:モンスーン気候地帯では、一年生禾本科植物は多年に渡って安定した群落を作らない。・・・一たん草原を人為的に露出させる、すなわち耕したりすると、その後間もなく一年生禾本はよく反応して、たちまち収穫が期待できる。ところが、多年生の植物の群落では、その生育を人為で簡単に改良することは出来ない。・・・つまり農業は、一年生禾本の群落を人為的に作ることから始まったという訳である。
P108:最初の雑穀農業−サバンナ植生で乾燥期に野火で草原を焼くと、かえって多年生禾本の純粋群落になり、一年生の食物は減る。・・・ニジェル川流域からケニヤ、タンガニーカにいたる地帯では、多年生禾本の草原の中へ、雨期の前に枯れている草の葉の間を通して、シコクビエの種子をいきなりバラ播きする方法がある。覆土も耕作も何もしない。やがて発芽してくると、人がその中に座り込んで、雑草の方を一本ずつ手で掘り取る。播種と除草だけの農法である。案外、雑穀農業はこんなことから始まったのではないだろうか。
(サバンナ農耕文化の基本複合)
P109:臼と杵は、精白用として出発したというより、籾摺り用として最初に用いられ、連続的に精白工程に入っていったもの。日本とシナ以外のアジア、アフリカの雑穀農民は現在でも籾のまま貯蔵し、必要な度にそれをいきなり杵で搗いて、籾摺りと精白を一工程でやってしまう場合が多いことから推定できる。
P110:乾燥地のタテギネ、多雨地帯のカラウス
P111:サドル・キルン
P112:4−サバンナ農耕文化の作物と雑草は全く別物であって、絶対的に競争者の関係である。ところがムギ類の雑草では、必ずしも作物と雑草は反対者ではなく、人間の側から見て互いに補充しあう関係にある場合がかなりある。・・・7−ムギ作の雑草の中からは、たくさんの栽培植物が開発されてきて、起源上からは二次作物と呼ばれるものを生んできたが、サバンナ農耕文化の中からは、一つも二次作物も生まれていない。・・・雑穀栽培は増産方法を、精微な除草の上に大きなウエイトを置いた。結果、反収量は歴史の早い時代に壁にぶつかる。農業の生産性の停滞がおこり、高級文化も停滞する。
P113:サバンナ農耕文化の発生的弱点の一つは家畜をかいたこと。
(5)イネのはじまり
(イネは湿地の雑穀)
P117:アジアでもイネは夏作の雑穀類の一つで、他の雑穀からイネを基本複合としてはっきり区別する必要はない。つまり”稲作文化”などという、日本からインドまでに広がる複合は存在しない。そこにあるものは、根栽文化複合の影響を受けたサバンナ農耕文化複合である。
P118:アジア原産のイネ原産地はインド東部
P119:マコモ類=北米のワイルド・ライス
P120:イネ>ヒエ類>タイワンアイアシ>ヒグロリザ。一方アジアのマコモ類は多年生ゆえに栽培植物として開発されることなく終わった。
(栽培イネの開発)
P121:「オリザ・ファツア」−栽培イネと自由に交雑する。「オリザ・ペレニス」←ウキイネ
P125:オリザ・ファツアは栽培稲がペレニスから導き出された後で、栽培稲とペレニスとの交雑した子孫の中からできた。という主張は実験的にも証明されているが、”純潔”のオリザ・ファツアが存在する可能性は未だ残されている。
(栽培イネの発達)
P125:現在世界のイネは大きく見ると明らかに二つの群れに分けられる。それはアフリカ系のオリザ・グラベリマとアジア系のオリザ・サチバとを指すのではない。なぜならアフリカ系のイネは農業上問題とはならないほどに限られたものだからだ。すなわちアジア系のイネの中に大きな二つのグループが存在しているのだ。これはまた、ジャポニカとインディカと呼ばれるアジア系のイネの二大区分ともちょっと違っている。・・・インドと東南アジアでは、イネの品種群が常に二大別(ジャポニカとインディカとは違う)されている。その二群をカルカッタ附近の呼び方を採用すると、アウス群とアマン群ということになる。
アウス群の「感温性=栽培時期の積算温度量に応じて出穂する」、アマン群の「感光性=日射の時間が短くなると出穂」。日本のイネはアウス群に入れるのが妥当。
P127:第31図
(イネ作農業のインドにおける展開)
P128:今日のインド稲作農業の体系はムギ作農耕の技術の借用の上に成立している。
P129:イネの移植栽培は穀類では珍しいかもしれないが、水田という移植後活着しやすい状態のための特殊現象と考えるのは誤りである。インドでは移植栽培が畑作の「シコクビエ」で行われている。・・・イネの移植栽培はシコクビエを真似たのかもしれない。もしそうなら、イネの移植栽培はインド・ビハール州で始まった可能性が推定できる。
(オカボとハトムギ
P131:モチ性澱粉穀物は欧州、アフリカには知られていない。
P132:ラオスの山岳民やボルネオの焼畑民族がコメの飯と淡水魚を重ねて、乳酸発酵させてスシを保存食としているが、これは日本の古風のスシの作り方と同じである。シナ中南部にも同様な習慣がある。スシ(鮨)という食べ物は山棲みの陸稲栽培した焼畑農耕文化複合の一つの要素として発生したものと考えられる。
(山棲みとスワンプ・フォレスト)
P132:アジアの焼畑農耕民は全て山に住んでいる。・・・ボルネオのディアック族は上流の傾斜地に焼畑を開き、主として陸稲を掘り棒で植えている。海岸から彼らの居住地のある山地までの間の平野は、一面森林のまま残されている。彼等は、平地の生活を好まず、山の斜面に棲むことを好む。このことは東アジアの焼畑農耕文化の共通特色で、焼畑は平地が無いので山でやるのでなく、平地は余っていても山へ行って住んでいる連中の農法である。山へ逃げ込んだのではなく、山を厭わない文化があるのだ。
「スワンプ・フォレスト」
P135:東南アジアのイネ作農業は、山棲みで陸稲を栽培し、焼畑から段々水田へと進展した一系統が根栽農耕文化の土台の上に成長し、その後、一方の極としてスワンプ・フォレストの開拓力で示される平地水田農業の展開がおこり、国家形成力を示したという、二段階のイネ作農業の発展が在った。
P136:日本−雑穀型の山棲み焼畑農業。日本古代史でも山間に山棲み農耕民が居たことは文書の歴史に明らかである。しかし、日本の古代国家は近畿の平野や盆地で、平野水田農業の生産力の上に成立した。日本では熱帯のスワンプ・フォレストに相当する大河下流の低地は、葦原となっていたと推定できる。日本の古名”葦原の中つ国”は、樹林の中つ国でなかったこと、すなわち山棲みではなく、平野棲み、しかも低湿地を指示することは、東南アジアにおける国家形成力が平野水田農業の段階で始めて興ったこととよく一致する。ちなみに揚子江下流の湿地も、葦原が原始景観であったと推定できる。
P140:コメからコムギに転換した民族はいない。
(6)地中海農耕文化
(地中海一年生植物気候)
P142:ラウンキエー「植物生活型スペクトラム
P144:地中海気候こそが一年生植物の故郷、地中海作物の特色は一年生の他に温帯では「冬作物」であること。この冬作という性質は、冬の低温と春の長日が開花に有利に作用するという性質を持っていることを示し、サバンナ農耕文化の作物は高温と、短日が開花に有利に作用するのと反対である。
(野草、雑草、作物の違い)
P145:人類が地中海東岸地方の、野生ムギ類からなる「テロファイト・ディスクライマックス」の草原で、野生ムギ類の採集を始めたのが、地中海農耕文化の始まりである。・・・この草原は、一年生禾本である野生ムギ類の草原だが、他にたくさんの一年草も混じっている。草食獣(牛、羊)が草を食べていて、草の成長力と、獣の食べる草の量とが自然的均衡を保つ草原である。もし草食獣の食べる量が局部的に増せば、そこには禾本科以外の草の割合が増えるといった性質の草原である。
P147:野草から雑草−雑草とは人間が作り出した環境に生ずるもので、人間文化の伝播と共に伝播し、地球上では常に野草より地理的分布が広い。
P148:栽培作物としての遺伝的変化が農業開始前におこった。人間が土地を耕すことを、植物の側から準備して待っていた。
(コムギの起源)
P150:二粒系コムギの畑の中に混じった雑草のタルホコムギの花粉が二粒系コムギを受精させると、その子孫の中からパンコムギが出現した。・・・コムギ近縁物は全部雑種起源である。
(オームギの中の落第生)
P152:「ホルディウム・バルボースム」−ライ麦似の多年生、もし現在の栽培ムギ類が全滅したときの、代替に有望である。
(二次作物の出現)
P154:エンバク類とライムギ
(農牧兼業の成立)
P156:サバンナ農耕文化では家畜の利用が不徹底で、血、肉、乳、皮と家畜の生産物の徹底的利用が不充分のままで停滞してしまった。
P156:ベーダによると紀元前1600年ごろ、アーリア族は村落に棲み、家の近くの土地を耕して穀類を栽培した。作った穀類は多くは”ヤバ”と呼ばれた主にオームギと推定される。牛、羊、馬を多量に飼い、畜群は村の周りの耕作地の外側で放牧され、牧童は夜になっても家へ帰らず、露営する歌もある。・・・このような兼業を現在までやっている例がチベット人の一部に見られる。ヒマラヤ山中に住むチベット人は家を二、三ヶ所に持っており、秋播き春播きのオームギを高度の違った場所で耕作する。春になると家族ぐるみ高地の家へ移動する。そのほか彼等は別にヤクの群れを持っており、冬は森林の中で放牧し、夏になるとヒマラヤの氷河の傍らの高山植物地帯へ登って放牧する。・・・ヤク群は放牧を主としており、濃厚(?)飼料を食べることを知らない。糞を集めて畑にやることも僅かしかできない。つまり、チベット人が兼業している耕作農業とヤクの牧畜とは有機的には殆ど全く無関係におこなわれているわけである。
西アジアの農業革命)
P159:畑地灌漑農法→北米のパイユート族
(エジプト王朝期の農業)
P161:「プラウ=アード」
鋤と牛二頭引きのプラウで農地を耕起した土地に種子を撒播し、その後羊を追い込んで踏みつけさせて覆土する。耕起から播種までの間に整地作業が無い。(従ってハロー様の道具が存在しない)
P163:ローマ軍の兵士は各人が手回しの石臼を持って行軍し、穀粒の配給を受けると各人で製粉した。
(地中海農耕文化の先後問題)
P166:三つの農耕文化複合では根栽農耕が一番古い。
P167:地中海農耕文化はサバンナ農耕文化からゴマなどの油料作物を借用している。
P168:エジプト文明期に、スーダン以南の地には雑穀とマメを主力とするサバンナ農耕文化複合が確固たる地盤を築いていたので、ムギなんか受け付けなかった。その代わりにゴマとウシを交換した。他にササゲも地中海農耕文化複合(エジプト)に与えた。
P170:シナの北部、インドの西部は共に今日はコムギ作地帯となっているが、これはサバンナ農耕文化複合の上に重複して地中海文化複合を受け入れたものだから、コムギ作農業といっても世界の他の部分と全く異なったものである。ムギ作農業は本来撒播する形態であるのに、シナではサバンナ農耕文化の発展型である条播をコムギ作農業に全面的に採用してしまい、日本もそれに倣っている。インド西部では撒播と条播が共に行われている。シナとインドのムギ作のもう一つの特徴はムギ作農業と結合した雑草群が殆どムギ畑に欠けていること。・・・シナとインドではエンバクなど雑草を除草して退治してしまった。
(コムギとオームギ)
P173:シナもインドも過去にはオームギが主力だった。
P174:インドで製粉に従事していたのはチャキワラというカーストだけ。・・・アタはチャパティの原料となうる粉の総称。
現在シナのコムギ食の標準は全粒製粉の粉を半発酵させ、セイロで蒸したマントウ。
P176:西洋古代の最初の事件は、第一次革命の灌漑農業と、第二次革命のドライ・ファーミングとの闘いであり、アレキサンダーの大征服は、ドライ・ファーミングに基礎を持つ文化が、灌漑農業のそれに優越したことを証明したものといえよう。
P178:シナ、インド、日本の農業は、ギリシア、ローマ時代にあれば、すこぶる立派な農業であるが、現在では決定的な遅れをとっている。
(7)新大陸の農耕文化
P180:新大陸の農耕文化は旧大陸の根栽農耕文化とサバンナ農耕文化に対応するものが発生し発達したものだが、地中海農耕文化に対応するものは発生しなかった。
(三つの根栽農耕文化)
熱帯起源=キャッサバ:ベネズエラ:0M
暖温帯起源=サツマイモ:メキシコ:2000M
冷温帯起源=ジャガイモ:ボリビア:3000M
P184:オカ、ウルコ、アヌウ、ラカチャ
凍結乾燥法がイモの貯蔵、輸送を可能とした。
P188:新大陸発見がもう500年遅れていたら、北米各地にマコモ類の水田農耕文化が広がっていたかもしれない。
菜豆、リマ・ビーン
P189:新大陸の根栽文化の作物はジャガイモ、サツマイモ、ヤウティア、キャッサバのように全世界で見事に能力を発揮しているが、それに比べると旧世界のサバンナ農耕文化の開発した栽培食物類は顔色が無い。