ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか

ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか

ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド
P60:「人間には、風習が変るたびに、語彙を変える習慣が無いという事実は、しばしば歴史家を大いに絶望させる」マルク・ブロック
P76:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム
P79:・・・農耕社会後の世界だけが、労働の新たな配分・独特の社会的流動性・新たなコミュニケーション技術の導入と共に、均質的な言語的=文化的傾向を持つ社会の創出に好適な条件を生み出したということである。
P101:トム・ネアン「中産階級出身のインテリゲンチャは、大衆を歴史の中へ招待すべきだった。そしてその招待状は、大衆に理解できる言語で書かれるべきだった。」
P107:5−8:長い中世期を通じ、上層への社会的移動を許した唯一の道程が教会の内部にだけあった
P112:11−16:・・・農業生産者は、王国・帝国・公国の歴史など、特に必要としていなかった。
P119:イーザーク・マルクス・ヨースト
P123:・・・バビロン捕囚の時代まで、ヘブライ人は神から与えられた律法を頑固にも繰り返し拒否していたのであり、・・・
P127:ハインリヒ・グレーツ『古代から現在までのユダヤ人の歴史』
P130:6−:ユダヤ人共同体では、聖書は、口承されてきた解釈の介在を受けずに、単独で読みうる独立の作品であると考えられたことがなかった。・・・
P134:モーゼス・ヘス『ローマとエルサレム
P141:1−「」ハインリヒ・フォン・トライチュケ
P145:テオドール・モムゼン
P149:14:ユリウス・ウェウルハウゼン「貧血状態の」宗派の事蹟
P156:1896年に発見されたメルエンプタハ王の石碑「イスラエルの敗北−イスラエルがエジプトにより全滅させられ「子孫は無かった」
P163:15−:十戒に神殿に関する言及が無い
P178:19−:公務員は自分の姓を聖書上の呼称に由来するものに変えなければならず、残りの住民も、・・・進んで、また熱狂的に改姓した。「離散時代の」親の姓は永久に捨て去られ、子供は偉大で栄光に満ちた聖書の中の英雄の珍しい名を採用した。・・・新たに建設されたほぼ全ての入植者のも、古いヘブライ語名が付けられた。
P183:1950年代と60年代に行なった発掘で、オルブライトとヤディンは、聖書のテクストに合致する遺跡だけを掘り続けた。・・・「カナン、ユダ、パレスチナ」の歴史において長い「非ユダヤ」時代があったことなど、これ等の考古学者の関心を殆ど引かなかった・・・
P186:13−:族長たちの物語はペリシテ人、アラム人、さらにはおびただしい数の「ラクダ」の存在を仄めかしている。しかしながら、考古学的・碑銘学的な全ての証拠は、ペリシテ人が紀元前12世紀より以前にはこの地域に現れていないことで一致している。・・・アラム人が中東で発見された碑文に引用されるのは、やっと紀元前11世紀の初め以降のことであり、彼らの存在が重きをなすのは9世紀以降のことである。・・・ラクダが家畜としてこの地域に現れたのは紀元前1000年の初めになってからで、商業用役畜としては前8世紀に入ってからなのである。
P187:『創世記』に引用された幾つもの名は、実は紀元前7世紀か、前6世紀に出現したものだ。『創世記』の作者はずっと後に建設されたアッシリア王国やバビロニア王国についての豊富な知識を持っていた。(トマス・トムソン)
P190:17ー:(低地帯に位置するカナンの町々の消滅後、それらの場所には、おそらく地元の遊牧民羊飼いが住みついた)彼らの村では豚の骨が発見されていない。
P193:10−:イスラエル王国の住人は、ユダの農民と同じように、熱心な異教徒だったことが分かっている。彼らの神の中で最も人気があるのがヤハウェで、・・・
P207:9−:紀元前8世紀のカナン地方には46万人が住んでいたと推定される。
P212:8−:カライ派
P213:6−:バビロンからバグダット、イディッシュは米国へ、ユダヤ人がユダの地の外にいる事実を説明する
P217:「追放なき離郷」は7世紀から
P224:3−:キュロスの布告の後も、バビロン捕囚で連れ去られた人々とその子孫のうち、ほんの一部しかエルサレムに戻らなかった。
P229:17−布教熱は紀元一世紀にその頂点に達した。
P233:9:ヘロドトスユダヤ人を発見できなかった。
P236:9−:改宗者の第二世代の子孫にヘブライ名をつける傾向・・・
P237:2−:その地の民族にもユダヤ人になろうとする者が多く出た。(『エステル記』8-17)
P238:3:ハスモン朝は、多数のユダヤ人と、同様に大量の「ユダヤの民」とを「生産」した最初の存在となったのである。
P241:1:祖先からの血統のおかげで権力の座についたその孫はヘブライ語の名前に典型的なギリシア名、ヨハネスを添えた。・・・つまり、ユダにおけるヘレニズム文化の移植過程は、ブレーキがかかるどころか、むしろ加速し、ハスモン朝の確立とともに、どっかりと腰を落ち着けるに至った。:12−:マカベアの反乱はユダ王国からヘレニズムを排除したのではなく、神々の多様性を排除した「だけ」だった。・・・考古学的発掘がこの時代に明らかにした驚くべき事実の一つは、広い豪華な共同浴場の豪奢さに比べ、祭式用の沐浴施設が質素であったことである。
P244:シャンマイ派もゼロデ党の最も過激なメンバーも、もとはといえばイドマヤの家族に属していた。
P245:7−:ガリラヤ住民の大半はイトゥレヤ人
P249:アレキサンドリアフィロンヘブライ語アラム語も話さなかった。・・・彼がモーゼの教えを知ったのは、他の多くのユダヤ人と同じように、聖書のギリシア語訳のおかげだった。

P258:タキトゥスは、もともとユダヤ人に好意的ではなかったが、改宗者となるとなおいっそう嫌悪しており、・・・ 
P261:・・・夫婦間の貞節といった家族的規範の方が、異教的な日常生活の習慣よりも、女性に好まれるようになった。
P262:8−「神を畏れる者」:
P275:7−:紀元638から643年にパレスチナを征服したイスラム教徒軍は46000人
P320:「アラブ人によるスペイン征服に参加した全てのベルベル人が改宗ユダヤ教徒」・・・スペインは(北アフリカの)ユダヤ人にとっての避難所に変わってしまったかのよう
P338:6−7:敵が同じ信仰を持つ場合は戦闘免除されさえした。
P340:8−:奴隷は常に、主人の宗教を
P365:5−:イ単語の80%はドイツ語という構成 10−:ユダヤ人はロシア語しか話さず
P366:12−:「シュテートル」
P367:16:基礎はスラブ語系方言でその語彙の多くはドイツ南東部のドイツ語
P393:3−ヘブロンでの「1929年の虐殺」の直後、パレスチナ住民らは驚くほど急に、生物学的には別種と看做されるように「なった」。
P411:体型的にはクルド人に近い
「平和のための進歩的綱領党」