日本海海戦とメディア 秋山真之神話批判 木村勲
P29:「大転舵」 風下位置が砲術の常識とされていた。
P35:戦時の艦隊行動は旗艦のマストに掲げられる信号旗を後続艦が次々後送りすることで成り立つ。
P39:砲内爆発は被弾とカウントされた。・・・(砲の冷却時間の必要から)この海戦における日・露双方の巨大砲弾の発射数は少なく、日本側12インチ砲計16門の総発射弾数は452発で、各艦平均28発に過ぎない。
P47:石炭の安定供給が出来ないため過重積載になっており、これが喫水線を深め波高のため砲に海水を浴び機能不全を起こしたのがハンディとなった。・・・日本の戦艦・装甲巡洋艦14隻中、英国製10、イタリア2、仏1、独1で全て外国産、・・・国産は3000トンクラスの巡洋艦がやっと。他方バルチック艦隊は戦艦・装甲巡洋艦11隻全て国産。砲弾は「下瀬火薬」と「伊集院信管」が優れていた。
第二章 軍神の誕生
P52:従軍記者は日本陸軍は外国人を含めて認めたが、海軍は一切認めなかった(外国人観戦武官は少数いた)
P71:「露探」、二六新報の社主で衆議院議員秋山定輔がこの嫌疑にかけられ証拠無しに議員辞職に追い込まれる。言葉が人間の社会的生命を失わせる力を持つようになった。
P72:「軍神」の発信源である「永田電」を掲載したのは東京朝日、都、毎日の三紙に過ぎず、とりわけ朝日の扱いが突出していた。全体としては「故広瀬中佐」が明らかに多数派であり、・・・しかし次第に「朝日用語」に巻き込まれ、・・・朝日はこの戦役を通じて大きく部数を伸ばし、東京の大大衆紙である二六新報や万朝報を追い抜いて行く
P72:永田電の筆者は秋山、軍神の創造者は秋山
P74:「幽霊見出し」
P76:・・・東郷戦報が作戦の未達成あるいは失敗を明かしているのに対して、新聞が戦果を派手に報ずるという傾向がここでもはっきりする。
P80:戦艦八島の触雷沈没は報道禁止
P100:「戦報」も八島沈没以前は総じて正直・素朴であった。
P117:連携水雷:長いロープに100メートル間隔にブイを設置し、その下7メートル程に水雷を吊るす。
P154:第二戦隊「独断専行」
P160:下瀬火薬は巨大な火炎瓶、艦上の構造物を炎上させ人員を殺傷したが、装甲の貫通力は弱く、艦船撃沈の致命傷とはならなかった。
P178:「勝戦の大原因として数ふべきは東郷大将の果敢なる転舵によって同航戦を強ひたるに始まり、上村大将が独断を以て其針路を転じ何人予想せざる如き二千メートル内外の近距離に迫って敵の進路を圧したによって定まった事と思ふのである」佐藤鉄太郎・・・「独断専行」は海戦後、撤回された秋山作戦のことと共に、言及するのはタブーとなった。
P186:当時の艦隊の基本隊形は一列縦陣が常識
P228:山本権兵衛「秋山の美文はよろしからず、広報の文章の眼目は実情をありのままに叙述するにある・・・美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世を惑わすことがある」
P233:情報参謀・小笠原長生作の史談の影響力−